名古屋城

  • 読み:なごやじょう
  • 別名:金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城
  • 所在地:愛知県名古屋市中区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:尾張徳川氏
  • 文化財指定:国指定特別史跡(昭和27年3月29日)
  • 訪問日:平成23年11月12日

名古屋城は、庄内川南岸の平地に築かれた城で、大永年間(1521~1528)に今川氏親によって尾張進出の拠点として築かれた那古野城がその前身とされています。天文元年(1531)、勝幡城の織田信秀によって城は奪われ、以後は織田氏の城となりました。信長が生まれると、信秀は幼い信長に那古野城を譲り、自身は古渡城を築いて移りました。天文20年(1551)に信秀が没すると、信長は織田氏の家督を継ぎ、天文24年(1555)に一族の織田信友を滅ぼして清洲城へと移ります。その後の那古野城には信長の叔父の信光や重臣の林秀貞らが入りますが、まもなく廃城となっています。その後は荒野となっていましたが、慶長14年(1609)、徳川家康が九男義直のために天下普請によって名古屋城の築城を始めます。以後は徳川御三家のひとつ尾張徳川家17代の居城として明治まで存続しました。

明治になると名古屋城には東京鎮台第三分営(後に第三師団に改組)が置かれます。明治26年(1893)には本丸が陸軍省から宮内省へ移管され、名古屋離宮となります。名古屋離宮は昭和5年(1930)に廃止され、以後は恩師元離宮として一般に公開されました。太平洋戦争では昭和20年(1945)の空襲により天守や本丸御殿などが焼失。天守は昭和34年(1959)に鉄筋コンクリートで外観復元され、平成23年(2011)現在、本丸御殿を再建中です。

正門前の土橋。

正門前の土橋から見た西側の外堀。

正門。
往時は榎多御門と呼ばれていましたが、明治43年(1910)に江戸城蓮池門を移築して正門と改称されました。
昭和20年(1945)に空襲により焼失し、戦後再建されています。

正門の脇にある通用門のような門。

正門をくぐったところから見た西の丸。
往時は郭内に多くの米倉が建てられていました。
平成23年11月現在、写真左手の建物の中で西南隅櫓(現存)の修復が行われていました。

西の丸から見た大天守。

西の丸には大天守の金の鯱(レプリカ)が展示されています。

大手馬出跡。
往時は西の丸と二の丸との間に堀が設けられていましたが、離宮時代に埋められています。

本丸に続く表二の門(現存)。

表二の門から見た内堀。
現在は空堀となっていて、堀の底では鹿が放し飼いにされています。

表二の門をくぐったところから見た東南隅櫓(現存)。

平成23年11現在、本丸御殿を復元中です。

大天守と小天守。

本丸東二の門。

本丸東二の門の枡形内にある名古屋城最大の石・清正石。
清正が運んだといわれていますが、実際にこの場所の工事を担当したのは黒田長政でした。

本丸東二の門の先は二の丸へと続いています。

御深井丸へと続く不明門。
昭和20年(1945)の空襲で焼失し、戦後再建されています。

不明門の土橋から見た内堀。

御深井丸に並べられた天守礎石。
天守再建工事の際に取り除かれたものです。

御深井丸から二の丸へと続く門。

御深井丸の西北端に建つ西北隅櫓(現存)。
清洲城の天守または小天守を移築したものとも伝えられるため清洲櫓とも呼ばれています。

西北隅櫓付近から見た外堀。

御深井丸内に建つ乃木倉庫。
乃木希典が名古屋鎮台在任中に建てられたことからその名がついています。

御深井丸に残る土塁。

御深井丸と西の丸の間に入り込んだ堀・鵜の首。
名古屋城にはこのような入江状の堀が多く造られました。

大手馬出から二の丸へ続く通路。

大手馬出から二の丸へ入ったところに立つ清正公石曳きの像。

清正公石曳きの像付近から見た東南隅櫓。

二の丸。
戦国時代の那古野城は現在の名古屋城二の丸に築かれていました。

二の丸から見た本丸東二の門。

緊急時の避難用に設けられた埋門。
ここから堀へ降りる階段が設けられていました。

二の丸東門。

二の丸大手二の門(現存)。

尾張徳川家61万9500石の居城です。大天守に載る金の鯱が広く知られ、金鯱城とも呼ばれています。