2012年2月アーカイブ

  • 読み:はやしおおじょう
  • 別名:金華山城
  • 所在地:長野県松本市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:小笠原氏
  • 文化財指定:長野県指定史跡(昭和45年10月22日)
  • 訪問日:平成23年11月26日

林大城は筑摩山地の西側に突き出した尾根上に築かれた山城で、南北朝争乱の功績により信濃守護となり府中(現在の松本)に入った小笠原貞宗によって築かれました。麓の大嵩崎集落を挟んだ林小城とあわせて林城とも呼ばれています。小笠原氏は、林城と平地に築いた井川城を拠点とし、周囲の山々に次々と山城を築き上げ、防衛線を構築していきます。

天文17年(1548)、武田氏が上田原合戦で敗れたのを機に小笠原長時は塩尻峠を越えて諏訪へ進攻します。しかし家臣の裏切りにより撤退を余儀なくされます。天文19年(1550)、武田氏の猛攻を受けて林城は自落。その後、武田氏は深志城(松本城)を信濃進出の拠点とし、林城は破却されました。

千鹿頭山北麓から見た林城。
盆地に向かって突き出した二つの尾根のうち奥の尾根の上に林大城は築かれました。

麓から頂上へ向かう大手道沿いには曲輪が段々にいくつも設けられています。

林大城へは東麓の橋倉集落からこの場所まで車で登ることができます。
ここは広くなっていて、三郭が設けられていたようです。

上の写真の石段の上から三郭を見下ろしたところ。
写真奥に往時の大手道が続いています。

石段を登った先の二郭。
現在は東屋が設けられています。

二郭から主郭へ向かう坂。
写真中央やや上で小段が設けられています。

主郭。
こちらにも東屋が建てられています。
三郭から主郭まで石段や石畳が設けられていますが、これは後世に建てられた神社の遺構ではないかと思われます。

主郭をぐるりと取り囲む土塁。

主郭の東側の土塁の一部には石積が見られます。

主郭の北側に設けられた曲輪。

主郭背後の曲輪。

主郭背後にはいくつか堀切が設けられています。

薄川南岸、筑摩山地から突き出した尾根の上に築かれた林城の大城です。小笠原氏はここを拠点としましたが、武田氏はここを破却し、深志城(松本城)を信濃進出の拠点としました。

  • 読み:はやしこじょう
  • 別名:福山城
  • 所在地:長野県松本市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:小笠原氏
  • 文化財指定:長野県指定史跡(昭和45年10月22日)
  • 訪問日:平成23年11月26日

林小城は筑摩山地の西側に突き出した尾根上に築かれた山城で、南北朝争乱の功績により信濃守護となり府中(現在の松本)に入った小笠原貞宗によって築かれました。麓の大嵩崎集落を挟んだ林大城とあわせて林城とも呼ばれています。小笠原氏は、林城と平地に築いた井川城を拠点とし、周囲の山々に次々と山城を築き上げ、防衛線を構築していきます。小城は古城とも書けることから、大城よりも古いと考えられてきましたが、最近では、小城の方が縄張が複雑であることから大城よりも後に築かれたと考えられています。

天文17年(1548)、武田氏が上田原合戦で敗れたのを機に小笠原長時は塩尻峠を越えて諏訪へ進攻します。しかし家臣の裏切りにより撤退を余儀なくされます。天文19年(1550)、武田氏の猛攻を受けて林城は自落。その後、武田氏は深志城(松本城)を信濃進出の拠点とし、林城は破却されました。

千鹿頭山北麓から見た林城。
盆地に向かって突き出した二つの尾根のうち手前の尾根の上に林小城は築かれました。

里山辺の集落からの登り口。
標柱のところから道が続いています。

5分ほど登ると右側に石垣を伴った平場が現れます。

石垣の平場から山頂付近へ向けて一直線に伸びる竪堀。
現在は左手に歩道がついていますが、往時は竪堀が通路も兼ねていたのではないかと思われます。

主郭背後の堀切。

主郭。
周囲を土塁が囲っています。

主郭背後の土塁はほかよりも高く造られています。
石を並べた区画が見られますが、これは後世に建てられた神社の遺構ではないかと思われます。

主郭の土塁の外側には石積が見られます。

二郭。
奥の切岸の上が主郭です。

二郭から主郭を取り囲む石積を見上げたところ。

二郭の虎口。
奥に主郭外側の石積が見えます。

二郭も主郭と同様に外側を石積に囲まれています。

三郭から麓へ向かって数段の曲輪が続いています。

麓の里山辺集落内に立つ浄蓮寺跡(推定)の標柱。

薄川南岸、筑摩山地から突き出した尾根の上に築かれた林城の小城です。小笠原氏はここを拠点としましたが、武田氏はここを破却し、深志城(松本城)を信濃進出の拠点としました。

  • 読み:やまだじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県吾妻郡中之条町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:山田氏
  • 文化財指定:中之条町指定史跡(平成7年12月1日)
  • 訪問日:平成23年12月17日

四万川西岸に向かって突き出した薬師岳の尾根の東端に築かれた城です。築城年代ははっきりしていませんが、上杉家文書の「関東幕注文」には、永禄3年(1560)に山田氏が山田城の城主であったことが記されています。

永禄6年(1563)、山田氏は岩櫃城から越後へと逃げる斉藤憲広の供をして上越国境まで赴き、嵩山城に残る城虎丸の後事などを託されています。永禄8年(1565)の嵩山合戦後に山田城は廃城になったものと考えられます。

主郭。
本曲輪の標柱が立っています。

主郭から北へと曲輪が続いています。

主郭の南東に位置する水の手曲輪。
往時はここに池がありました。
山田城はこの水の手曲輪を守るように曲輪が配置されているのが特徴です。

水の手の池は完全には干上がっておらず、湿地帯のようになっています。
雨が続くと往時のような池が姿を現します。

水の手曲輪から北へと伸びる堀切。

城の南側には土塁と虎口が残っています。

薬師岳の北東尾根の末端部に築かれた城です。水の手曲輪を守るように曲輪が配置されているのが特徴です。