2012年5月アーカイブ

  • 読み:はちがたじょう
  • 別名:-
  • 所在地:埼玉県大里郡寄居町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:長尾氏、北条氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和7年4月19日)
  • 訪問日:平成23年12月23日

鉢形城は、荒川の南岸の断崖上に築かれた城で、文明8年(1476)に関東管領山内上杉氏の家宰であった長尾景春によって築城されたと伝えられています。永禄年間(1558~1570)に北条氏邦によって改修され、現在の規模になっています。以後は北条氏の北関東支配の拠点と西方からの攻撃の備えとしての役目を担っていました。

天正18年(1590)の小田原征伐に際し、氏邦らは約3000の兵で立て篭もりますが、前田利家、上杉景勝らによって攻められ開城。以後は廃城になったと考えられています。

荒川越しに見る鉢形城。
荒川側は断崖になっていて、こちらからの侵攻は不可能です。

深沢川の東岸に設けられた外曲輪。
写真奥の休憩所の向こうには鉢形城歴史館が建っています。

同じく外曲輪。
このあたりの外曲輪は土塁が残っています。

外曲輪と本曲輪・二の曲輪方面を隔てる深沢川。
天然の堀となっていました。

深沢川西岸に設けられた二の曲輪。
平成9年(1997)の発掘調査で鍛治工房があったことがわかっています。

二の曲輪内に祀られた城山稲荷神社。

二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀。
右が二の曲輪、左が三の曲輪です。

堀の中に設けられた畝。
北条氏の城郭の特徴であり、堀に落ちた敵の行く手を阻むためのものとも、堀底の水を一定に保つためのものともいわれています。

二の曲輪の西に設けられた三の曲輪。

三の曲輪の虎口(復元)。

三の曲輪内の秩父曲輪。
発掘調査の結果発見された掘立柱建物、庭園の池、井戸が復元されています。

三の曲輪の内側には川原石を3~4段に積み上げた石積土塁があったことが確認されています。

三の曲輪から見る荒川。

三の曲輪の西に設けられた諏訪曲輪。
現在は諏訪神社が祀られています。

諏訪曲輪を取り囲む堀。

諏訪曲輪と逸見曲輪に囲まれた御手洗池。
水濠の一部でした。

三の曲輪の南に設けられた逸見曲輪。

逸見曲輪の馬出し。

逸見曲輪の西に設けられた大手。

鉢形城の南西端にあたる大光寺曲輪。
現在は民家が建っています。

大光寺曲輪側から見た逸見曲輪南東の弁天社跡。
往時は周囲を水に囲まれていたようです。

二の曲輪の北、本曲輪の南端。
本曲輪は中央を道路が突っ切っています。

本曲輪内の道路の西側に設けられた御殿曲輪。

道路の東に建つ寄居町シルバー人材センターのあたりは御殿下曲輪です。

御殿曲輪内に立つ鉢形城址の碑。

御殿曲輪内に残る土塁。

御殿曲輪から見下ろす荒川。
断崖絶壁です。

本曲輪の北に一段低く設けられた笹曲輪。

笹曲輪内に設置された鉢形城跡の立体模型。
右が荒川、中央の溝が深沢川。深沢川の右に手前から笹曲輪、本曲輪、二の曲輪、三の曲輪...と連なっているのがわかります。

荒川南岸の断崖の上に築かれた城です。北条氏の北関東支配の重要な拠点でしたが、小田原征伐で攻められ開城したのち廃城となっています。日本100名城に選定されています。

  • 読み:かわごえじょう
  • 別名:河越城、初雁城
  • 所在地:埼玉県川越市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:扇谷上杉氏、北条氏、酒井氏ら徳川譜代大名
  • 文化財指定:埼玉県指定史跡(大正14年3月31日)
  • 訪問日:平成23年12月23日

川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉氏の上杉持朝が古河公方の南進に備えて太田道真・道灌親子に築かせたのが始まりとされています。その後川越城は扇谷上杉氏の穂居となりますが、天文6年(1537)、川越城は北条氏綱によって奪取されます。天文14年(1545)、関東管領山内上杉氏の上杉憲政と扇谷上杉氏の上杉朝定は古河公方足利晴氏を味方に引き入れ、北条綱成の守る川越城を包囲。当時北条氏康は駿河の今川義元と交戦状態にあったため本格的な援軍を川越城に送れずにいましたが、翌天文15年、今川氏との和睦を結び川越城へ出陣。上杉方に奇襲攻撃を仕掛けます。これによって上杉朝定は討ち取られ扇谷上杉氏は断絶。武蔵は北条氏の支配下に入りました(河越夜戦)。

天正18年(1590)の小田原征伐においては、前田利家、上杉景勝らによって包囲され降伏。徳川家康が関東に移封されると、川越は江戸防衛の要衝となり、酒井氏ら徳川家譜代大名が領主を務めるようになります。寛永16年(1639)、松平信綱によって拡張整備が行われ、本丸・二の丸・三の丸・追手曲輪・新曲輪などが整備され、9万9千坪の巨大城郭となりました。

大手門。
現在の川越市役所のあたりが大手門でした。

川越市役所の前に立つ太田道灌の像。

太田道灌の像の横の川越城図。
相当に大規模な城郭であったことがわかります。

外曲輪と中曲輪を隔てていた中ノ門の模擬冠木門。

発掘された中ノ門堀。
城の内側のほうが勾配が急になっています。

二の丸。
現在は川越市立博物館と美術館が建っています。

本丸門。
奥に本丸御殿が見えます。

本丸御殿。
嘉永元年(1848)に建てられたものです。明治以降は入間県庁舎、入間郡公会所、専売曲淀橋専売支局川越分工場(煙草工場)、初雁武徳殿、川越市立第二中学校仮校舎・屋内運動場、武道場と様々な用途に利用されましたが、昭和42年(1967)に大規模な修理が行われ、現在のような公開施設となりました。

本丸御殿の奥に建つ家老詰所。
明治初期に解体され現在のふじみ野市の商家に再築されましたが、昭和62年(1987)に川越市に寄贈され、現在の位置に移築されました。

家老詰所内ではこのような人形が会議を開いています。

天神曲輪に祀られた三芳野神社。
城が現役のころにはすでに鎮座していていました。「とおりゃんせ」の歌の発祥の地といわれています。

本丸(右)と八幡曲輪(左)を隔てる堀。
写真奥で右に折れています。

本丸の南西端に設けられた富士見櫓。
櫓台の上に三層の櫓が建っていました。

富士見櫓の櫓台上部。
現在は御嶽神社が祀られています。

現在の川越市中心部に建てられた城です。江戸時代には江戸防衛の要衝として徳川譜代大名が城主を務めています。日本100名城に選定されています。

  • 読み:まつやまじょう
  • 別名:-
  • 所在地:埼玉県比企郡吉見町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:上田氏、上杉氏、桜井松平氏
  • 文化財指定:国指定史跡(平成20年3月28日)
  • 訪問日:平成23年12月23日

松山城は、市野川東岸の丘の上に築かれた城で、応永年間(1394~1427)初期に扇谷上杉氏配下の上田氏によって築かれたのが始まりとされています。天文15年(1545)、河越夜戦で扇谷上杉氏を撃破した北条氏康はその勢いで松山城を攻撃。城主の上田氏は降伏し、北条氏の配下となります。永禄3年(1560)、山内上杉氏の憲政から関東管領職を引き継いだ越後の長尾景虎改め上杉政虎(のちの謙信)が関東へ向けて出陣。翌永禄4年に松山城は落城。城主・上田朝直は秩父に退き、松山城は上杉氏のものとなります。しかし翌永禄5年、北条・武田連合軍が松山城は攻め、再び北条型の上田朝直が城主となります。

天正18年(1590)の小田原征伐においては、前田利家、上杉景勝らによって包囲され降伏。徳川家康が関東に移封されると、松平家広が1万石で入部します。慶長6年(1601)、松平忠頼が浜松へ移封となると松山藩は天領となり、松山城は廃城となりました。

吉見百穴から見る松山城。

本曲輪。
かつてここには神社が建っていましたが、現在は石段と手水舎が残るだけになっています。

本曲輪東端の物見櫓跡といわれる場所に立つ松山城址の碑。

本曲輪から南東方向を見下ろしたところ。
中央を流れる川が市野川です。

本曲輪の南に配置された笹曲輪を本曲輪から見たところ。

本曲輪(右)と笹曲輪(左)の間に設けられた堀切。

本曲輪の南東に設けられた太鼓曲輪。
名前のとおり太鼓櫓があったといわれています。

本曲輪(左)と二の曲輪(右)の間に設けられた堀切。
複雑に屈曲しています。

二の曲輪。

二の曲輪(左)と三の曲輪(右)の間の堀。

三の曲輪。
春日曲輪と呼ぶこともあります。

三の曲輪(左)と四の曲輪(右)の間の堀。

四の曲輪。
三の曲輪を春日曲輪と呼んだ場合は、ここは三の曲輪になります。

四の曲輪の西端には土塁が残っています。

本曲輪の北に設けられた兵糧倉跡。

二の曲輪の北に設けられた惣曲輪。
一部農地化しています。

北の麓に建てられた岩室観音堂。
松山城主が代々信仰し護持していました。

岩室観音堂から上へ伸びる竪堀。
惣曲輪の西へ続いています。

松山城のすぐ北にある吉見百穴。
その正体は長らく謎に包まれていましたが、大正時代に古墳時代の墓穴として造られたものであることがわかっています。

吉見百穴の南、市野川東岸の丘の上に築かれた城です。関東の戦乱の中心となった重要な城であり、国の史跡に指定されています。

  • 読み:おしじょう
  • 別名:-
  • 所在地:埼玉県行田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:成田氏、深溝松平氏、東条松平氏、酒井氏
  • 文化財指定:埼玉県指定史跡(昭和38年8月27日)
  • 訪問日:平成23年12月23日

忍城は、東流する忍川が南に流れを変える地点の南西に築かれた城です。もともとこの地には扇谷上杉氏配下の忍氏の居館がありましたが、延徳元年(1490)、関東管領山内上杉氏配下の成田親泰がこれを奪います。翌延徳2年から築城を開始したのが始まりとされています。天文15年(1546)の河越夜戦以降、北条氏が武蔵へ進出してきますが、当時の忍城は沼沢地にあったため北条氏の勢力の只中にあっても忍城が落ちることはありませんでした。永禄2年(1559)、越後の長尾景虎が関東の諸将に呼びかけ小田原攻めを行うと成田長泰もこれに従い小田原へ向かいます。その最中に鎌倉の鶴岡八幡宮で行われた景虎の関東管領就任式において長泰が景虎に拝礼しなかった無礼を咎められたことを恥じて忍城に立て篭もり(山内上杉氏のころからの特権で、成田氏は関東管領に拝礼しなくてもよかった)、その後北条氏へ臣従します。

天正18年(1590)の小田原征伐においては、石田三成らによって包囲されます。三成は全長28kmにも及ぶ長大な堤防を築いて忍城を水攻めしようとしますがうまくいかず、小田原城開城後も北条氏の支城の中で唯一落城せずに残りました。徳川家康が関東へ移封となると、松平家忠が1万石で入城。文禄元年(1592)には家康の四男・松平忠吉が10万石で入城し、慶長5年(1600)に尾張清洲へ移封となります。その後は酒井氏らが城主を務め、忍藩は明治まで存続しました。

本丸の土塁。

本丸に建つ藩校・修進館のものと伝えられる門。

復元された本丸土塁と白壁の塀。

城内の櫓に使用されていた石垣。

本丸内の行田市郷土博物館の建物の西に建つ高麗門。

本丸の北東隅に建つ時の鐘。
往時は国道を挟んで反対側の諏訪曲輪にありましたが、現在はこの場所に移築されています。

本丸の南東端に建つ模擬御三階櫓。
本来はこの場所ではなく、もっと南に建てられていました。

御三階櫓脇の門。

平成6年(1994)に造られた浮き城の径の冠木門。。

浮き城の径。
置くが本丸側。

本丸の北、現在の行田市郷土博物館とは国道を挟んで反対側に設けられた諏訪曲輪。
諏訪神社が建てられています。

諏訪曲輪に残る土塁。

忍川南西岸の沼沢地帯に築かれた城です。小田原征伐においては北条氏の数ある支城の中で唯一、小田原開城後まで残った城です。現在は行田市郷土博物館が建てられています。