松山城

  • 読み:まつやまじょう
  • 別名:-
  • 所在地:埼玉県比企郡吉見町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:上田氏、上杉氏、桜井松平氏
  • 文化財指定:国指定史跡(平成20年3月28日)
  • 訪問日:平成23年12月23日

松山城は、市野川東岸の丘の上に築かれた城で、応永年間(1394~1427)初期に扇谷上杉氏配下の上田氏によって築かれたのが始まりとされています。天文15年(1545)、河越夜戦で扇谷上杉氏を撃破した北条氏康はその勢いで松山城を攻撃。城主の上田氏は降伏し、北条氏の配下となります。永禄3年(1560)、山内上杉氏の憲政から関東管領職を引き継いだ越後の長尾景虎改め上杉政虎(のちの謙信)が関東へ向けて出陣。翌永禄4年に松山城は落城。城主・上田朝直は秩父に退き、松山城は上杉氏のものとなります。しかし翌永禄5年、北条・武田連合軍が松山城は攻め、再び北条型の上田朝直が城主となります。

天正18年(1590)の小田原征伐においては、前田利家、上杉景勝らによって包囲され降伏。徳川家康が関東に移封されると、松平家広が1万石で入部します。慶長6年(1601)、松平忠頼が浜松へ移封となると松山藩は天領となり、松山城は廃城となりました。

吉見百穴から見る松山城。

本曲輪。
かつてここには神社が建っていましたが、現在は石段と手水舎が残るだけになっています。

本曲輪東端の物見櫓跡といわれる場所に立つ松山城址の碑。

本曲輪から南東方向を見下ろしたところ。
中央を流れる川が市野川です。

本曲輪の南に配置された笹曲輪を本曲輪から見たところ。

本曲輪(右)と笹曲輪(左)の間に設けられた堀切。

本曲輪の南東に設けられた太鼓曲輪。
名前のとおり太鼓櫓があったといわれています。

本曲輪(左)と二の曲輪(右)の間に設けられた堀切。
複雑に屈曲しています。

二の曲輪。

二の曲輪(左)と三の曲輪(右)の間の堀。

三の曲輪。
春日曲輪と呼ぶこともあります。

三の曲輪(左)と四の曲輪(右)の間の堀。

四の曲輪。
三の曲輪を春日曲輪と呼んだ場合は、ここは三の曲輪になります。

四の曲輪の西端には土塁が残っています。

本曲輪の北に設けられた兵糧倉跡。

二の曲輪の北に設けられた惣曲輪。
一部農地化しています。

北の麓に建てられた岩室観音堂。
松山城主が代々信仰し護持していました。

岩室観音堂から上へ伸びる竪堀。
惣曲輪の西へ続いています。

松山城のすぐ北にある吉見百穴。
その正体は長らく謎に包まれていましたが、大正時代に古墳時代の墓穴として造られたものであることがわかっています。

吉見百穴の南、市野川東岸の丘の上に築かれた城です。関東の戦乱の中心となった重要な城であり、国の史跡に指定されています。