忍城

  • 読み:おしじょう
  • 別名:-
  • 所在地:埼玉県行田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:成田氏、深溝松平氏、東条松平氏、酒井氏
  • 文化財指定:埼玉県指定史跡(昭和38年8月27日)
  • 訪問日:平成23年12月23日

忍城は、東流する忍川が南に流れを変える地点の南西に築かれた城です。もともとこの地には扇谷上杉氏配下の忍氏の居館がありましたが、延徳元年(1490)、関東管領山内上杉氏配下の成田親泰がこれを奪います。翌延徳2年から築城を開始したのが始まりとされています。天文15年(1546)の河越夜戦以降、北条氏が武蔵へ進出してきますが、当時の忍城は沼沢地にあったため北条氏の勢力の只中にあっても忍城が落ちることはありませんでした。永禄2年(1559)、越後の長尾景虎が関東の諸将に呼びかけ小田原攻めを行うと成田長泰もこれに従い小田原へ向かいます。その最中に鎌倉の鶴岡八幡宮で行われた景虎の関東管領就任式において長泰が景虎に拝礼しなかった無礼を咎められたことを恥じて忍城に立て篭もり(山内上杉氏のころからの特権で、成田氏は関東管領に拝礼しなくてもよかった)、その後北条氏へ臣従します。

天正18年(1590)の小田原征伐においては、石田三成らによって包囲されます。三成は全長28kmにも及ぶ長大な堤防を築いて忍城を水攻めしようとしますがうまくいかず、小田原城開城後も北条氏の支城の中で唯一落城せずに残りました。徳川家康が関東へ移封となると、松平家忠が1万石で入城。文禄元年(1592)には家康の四男・松平忠吉が10万石で入城し、慶長5年(1600)に尾張清洲へ移封となります。その後は酒井氏らが城主を務め、忍藩は明治まで存続しました。

本丸の土塁。

本丸に建つ藩校・修進館のものと伝えられる門。

復元された本丸土塁と白壁の塀。

城内の櫓に使用されていた石垣。

本丸内の行田市郷土博物館の建物の西に建つ高麗門。

本丸の北東隅に建つ時の鐘。
往時は国道を挟んで反対側の諏訪曲輪にありましたが、現在はこの場所に移築されています。

本丸の南東端に建つ模擬御三階櫓。
本来はこの場所ではなく、もっと南に建てられていました。

御三階櫓脇の門。

平成6年(1994)に造られた浮き城の径の冠木門。。

浮き城の径。
置くが本丸側。

本丸の北、現在の行田市郷土博物館とは国道を挟んで反対側に設けられた諏訪曲輪。
諏訪神社が建てられています。

諏訪曲輪に残る土塁。

忍川南西岸の沼沢地帯に築かれた城です。小田原征伐においては北条氏の数ある支城の中で唯一、小田原開城後まで残った城です。現在は行田市郷土博物館が建てられています。