2013年6月アーカイブ

  • 読み:おばたじんや
  • 別名:小幡城
  • 所在地:群馬県甘楽郡甘楽町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:織田氏、奥平松平氏
  • 文化財指定:国指定名勝(平成12年3月30日)
  • 訪問日:平成24年8月5日

小幡陣屋は、大坂の陣後に小幡に封じられた織田氏によって、雄川東岸に築かれた陣屋です。織田信長の次男・信雄は、大坂の陣後に大和宇陀3万石と上野小幡2万石を与えられ、小幡には信雄の四男・信良が入りました。信良は初め福島に居城しますが、後に雄川東岸の平地に陣屋の造営を開始。藩主は3代目の信昌に代わり、寛永19年(1642)に完成、これが小幡陣屋となります。小幡陣屋には池を中心とした回遊式の庭園が設けられ、論語の「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」の一説から「楽山園」を名付けられました。

織田氏は7代にわたって小幡藩主を務めますが、明和3年(1766)、儒学者の山県大弐が幕府に対しての謀反の罪で処刑されたのに連座して出羽へ移封。翌明和4年、松平忠恒が小幡に入ります。奥平松平氏は明治維新まで4代に渡り幕府の要職を務めますが、藩の政は悪化し領内は荒廃。借金がかさみ、慶応4年(1868)の戊辰戦争では新政府側に与して藩を維持するのがやっとの状況になります。明治4年(1872)、廃藩置県を迎え小幡陣屋は廃城となりました。

雄川の西岸にある甘楽ふるさと館付近から見た小幡陣屋。

小幡陣屋の西を流れる雄川。
天然の堀となっていました。

復元された中門。
現在は楽山園への入場門になっています。

外郭に復元された十九間長屋。
藩邸の職務の従事者の住まいであった。

拾九間長屋内部には小幡陣屋の復元模型が展示されている。

拾九間長屋内部に展示された藩祖・織田信雄像。

外郭と内郭を隔てる復元された土塁と外郭側に設けられた堀。
石積も復元されています。

平面復元された外郭内の厩跡。。

北裏門。

外郭の北端部分。
こちらも建物の跡が平面復元されています。

外郭北部と内郭を隔てる北門。

内郭。

内郭内に平面復元された藩邸跡。

外郭南部と内郭を隔てる玄関前門。
中門から入ってすぐのところにこの門があり、くぐるとすぐ藩邸の玄関があったことから、小幡陣屋が軍事施設としてよりも政務の場を重視していたことが伺えます。

内郭から楽山園へつながる庭門。

復元された楽山園。
丘の上の建物は梅の茶屋、その下の建物は腰掛茶屋、池は昆明池です。 国指定名勝になっています。

茶屋・凌雲亭。
有料で抹茶が楽しめます。

楽山園の南東側に設けられた庭園。
築山と池が復元されています。

復元された腰掛茶屋。

復元された梅の茶屋。
小幡陣屋の最高所に当たります。

梅の茶屋から眺める小幡陣屋主要部。

武家屋敷の入口に設けられた食い違い郭。

中小路。
通りの両側に武家屋敷が並んでいました。

陣屋の北東の市街地に残る大手門礎石。
四脚門が建てられていたといいます。

織田信長の次男・信雄を藩祖とする小幡藩の陣屋です。大名庭園「楽山園」が国の名勝に指定されています。

  • 読み:ふくしままさのりやしき
  • 別名:-
  • 所在地:長野県下高井郡高山村(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:福島氏
  • 文化財指定:長野県指定史跡(昭和41年3月31日)
  • 訪問日:2012年9月1日

福島正則屋敷は、千曲川東岸の支流・松川の南岸の平地に築かれた居館です。福島正則は安芸広島藩50万石を領有する大名で広島城に居城していましたが、台風で崩れた広島城の石垣を幕府に無断で補修したことが武家諸法度違反に問われ、領地を没収されます。元和5年(1619)6月、越後魚沼郡2万5千石と信濃高井郡2万石を捨扶持として与えられ、正則は高井野に居館を定め隠居。家督を嫡男忠勝に譲ります。居館は東西57間半(約104.5m)、南北40間(約72.7m)の方形で、周囲を土塁と空堀が取り囲む単郭式の質素なものでした。翌元和6年(1620)、忠勝が早世したため、魚沼郡2万5千石は返上されています。

正則は領内の検地や利水治水工事、新田開発を行いますが、寛永元年(1624)7月に病死。幕府の使者の到着前に家臣が遺体を火葬にしたことからまたも武家諸法度違反に問われ、福島氏は残りの領地2万石も没収され、忠勝の弟・正利は3千石の旗本に身を落としました。正利は正則と同様に新田開発を推奨しますが、寛永14年(1637)、嗣子のないまま死去し福島氏は断絶しました。現在、高井野の居館跡には高井山高井寺が建っています。

長野県道54号から見た福島正則屋敷。
この辺りは屋敷の北西端になります。
標柱下の石垣は、安政年間(1854~1860)に高井寺によって築かれたものです。

屋敷跡に建つ高井寺。

千曲川東岸の支流・松川南岸に築かれた単郭式の館です。安芸広島50万石を没収され信濃高井野藩に移封となった福島正則が居館としました。現在は高井寺が建っています。

  • 読み:よこやまじょう
  • 別名:-
  • 所在地:長野県長野市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:長尾・上杉氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:2012年9月1日

横山城は、善光寺の東の城山に築かれた城です。南北朝時代には信濃守護斯波氏に反抗する村上氏、高梨氏、島津氏らが横山の地に集結し、守護勢と合戦したとされ、古くから重要な地でした。

弘治元年(1555)、武田信玄が旭山城を取り立てたのに対し、長尾景虎(後の上杉謙信)は横山城に陣取りますが、すぐに葛山城へ移ったとされています。

善光寺境内東の城山公園の土手。
土塁に見えなくもないですがよくわかりません。

城山動物園と長野清泉女学院高校の間を流れる堀切川。
天然の堀をなしていたようです。

彦神別神社境内の二郭。
写真奥の高くなったところが主郭です。

主郭。
彦神別神社の拝殿が建っています。
神社の裏には小規模ながら土塁が残っています。

善光寺境内の東の山に築かれた城です。古くから重要視されていたようですが、大名同士の合戦には役不足だったようで、ここに陣取った長尾景虎もすぐに葛山城へと移っています。現在は市街化が進み、遺構はあまり見られません。

  • 読み:ねづじょう
  • 別名:-
  • 所在地:長野県東御市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:祢津氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:2012年9月7日

千曲川北岸の祢津城山に築かれた山城です。祢津氏が築いたものと思われますが、その築城年代は定かではありません。祢津氏は古くからその名が見られ、保元元年(1156)の保元の乱で源義朝に従った武将の中に祢津神平の名があるといいます。天文10年(1541)、武田氏、諏訪氏、村上氏の連合軍が当地へ進出してくると、祢津氏は武田氏に属するようになります。天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、北条氏麾下となり、徳川家康に属した真田氏と戦いますが、翌天正11年には真田氏に属しています。その子孫は松代藩の家老や目付を務めたほか、沼田藩の家老も務めています。

祢津城山の南西麓から見た祢津城(中央の小高い山)。

駐車場からの登り口。

駐車場から10分程度でたどり着く虎口状の部分。
写真ではわかりづらいですが、この両側が横堀状になっています。

主郭の南の腰曲輪から主郭の切岸を見たところ。

主郭を取り囲む土塁の外側には石積の名残が見られます。

主郭。
周囲を土塁が取り囲んでいます。

主郭を取り囲む土塁。

主郭から南方向を見たところ。
遠くには蓼科山が見えています。

主郭背後(北側)の堀切。

主郭の北側に設けられた二郭。

二郭の北側にも大規模な堀切が設けられています。

二郭のさらに北に設けられた三郭。

三郭の北にある周囲より低くなった区画。
池とされていますが、馬出しのようにも見えます。

池のさらに北には石積が見えますが、往時のものなのかはわかりません。
このさらに北に「上の城」がありますが、現在は藪化が進み、こちら側から行くのは困難です。

千曲川北岸の祢津城山に築かれた山城で、祢津氏の居城です。上の城と下の城に分かれており、ここでは下の城を紹介しています。土塁や堀切が良好な状態で残されています。

  • 読み:うえぐりじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:植栗氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:2012年9月8日

植栗城は、吾妻川南岸の崖端に築かれた城で、植栗氏の居城でした。その築城年代は定かではありません。植栗氏は斉藤氏に属し、永禄7年(1564)の岩櫃城の戦いでは真田氏と戦いましたが、破れて降伏。以後は真田氏に属するようになり、天正3年(1564)の長篠の戦いにおいても真田軍の一員として従軍しています。その後も植栗氏は真田氏に仕えますが、江戸時代初期に断絶。殖栗城もそれ以前には廃城になっていたものと考えられます。

植栗城主郭。
南西隅に標柱が立っています。
主郭の切岸はそのまま耕地の畦畔となっています。

主郭西の堀。

主郭の東端。
ここには姫の宮があったといいますが、姫の宮とは...?

井戸曲輪。
現在は椎茸の原木が置かれています。

応永2年(1468)頃の城主・植栗安芸守の碑。

植栗城の北側は吾妻川に向かって落ちる断崖になっています。

吾妻川南岸の崖端に築かれた城です。現在は周辺の宅地化・農地化が進み、遺構は主郭周辺にしか見られませんが、周囲の地形に城の名残が見られます。