2014年2月アーカイブ

  • 読み:へいじょうきゅう/ならのみや
  • 別名:-
  • 所在地:奈良県奈良市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:天皇家
  • 文化財指定:国特別史跡(大正11年10月12日)、ユネスコ世界文化遺産(平成10年12月2日)
  • 訪問日:2012年10月6日

平城宮は、和銅3年(710)、それまでの都であった藤原京から遷都された平城京の北端に置かれた宮殿です。大きさは東西約1.3キロメートル、南北約1キロメートル、周囲を大垣が取り囲み、朱雀門を始めとする12の門が設けられていました。宮殿内には天皇の住居である内裏、政治や儀式の場である大極殿と朝堂院、役所の建物が建ち並んでいました。

天平12年(710)12月に聖武天皇の勅命により恭仁京へ遷都され平城京は一時放棄されます。さらに天平15年(743)に紫香楽宮、天平16年(744)に難波宮へ遷都されましたが、天平17年(745)5月、再び平城京へ遷都されました。その後延暦3年(784)に桓武天皇によって長岡京へ都が遷されるまで、平城京は政治の中心で在り続けました。

弘仁元年(810)9月、平城上皇が平安京を廃して平城京へ遷都する詔を発しますが、嵯峨天皇により防がれ、平城京への遷都が実現されることはありませんでした。その後の平城京は次第に農地化していきますが、奈良の町は南都と呼ばれ特別視されました。

復元された平城京の中心を南北に貫く朱雀大路を朱雀門から見たところ。
幅は約75メートルとされています。

復元された平城宮の正門・朱雀門。

朱雀門から第一次大極殿方面を見たところ。
現在、宮殿跡内を近鉄奈良線が貫いています。

第一次大極殿南門から朱雀門方面を見たところ。
往時は朝堂院が建っていました。

第一次大極殿南門から大極殿方面を見たところ。

復元された第一次大極殿(和銅3年(710)から天平12年(740)までの大極殿)。
天皇の即位や外国使節との面会などに使われていました。
奈良時代中頃には移築されて山城国国分寺の金堂として利用されました。

第一次大極殿に置かれた高御座の実物大イメージ模型。

第一次大極殿から南門、朱雀門方面を見たところ。

第一次大極殿の東に設けられた第二次大極殿(天平17年(745)~延暦3年(784)までの大極殿)の築地回廊跡。

復元された第二次大極殿の基壇。

復元された第二次大極殿の基壇の礎石。

藤原京から遷都された平城京の北端に置かれた宮殿です。聖武天皇の時代に一時放棄されましたが、再び平城京に都が戻っています。平成10年(1998)に古都奈良の文化財としてユネスコ世界文化遺産に登録されています。

  • 読み:はたけやましげただやかた
  • 別名:畠山館
  • 所在地:埼玉県深谷市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:秩父・畠山氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成24年11月11日

畠山重忠館は、荒川南岸の平地に築かれた館です。長寛2年(1164)、重忠は秩父重能の次男として生まれ、後に畠山重忠と称しました。秩父氏は元は秩父郡に居を構えていましたが、重能の時代に畠山の地へ居を移しています。重忠は源頼朝に仕え、後に菅田館へ本拠を移しています。頼朝の死後、北条氏に謀られ、元久2年(1205)、二俣川で一族とともに討たれました。

東側から見た畠山重忠館跡。

東側の入口脇にわずかに残る土塁の跡。

西奥の建物の内部には、重忠とその家臣の墓6基が建てられています。

重忠の墓の裏にわずかに残る土塁の跡。

館の北、駐車場に立つ畠山重忠像。
重忠は一の谷の戦いで「大事に馬に無茶はさせられない」と馬を背負って崖を降りたと伝えられています。

像の足元にある重忠ゆかりの石。
重忠が投げた石だといわれています。

板石塔婆。
重忠の百年忌に建てられてものです。

重忠の父・重能の墓。

重忠公産湯の井戸と伝えられる井戸。

荒川南岸の平地に築かれた館です。この地に生まれた畠山重忠は関東武士の鑑として尊敬を集めていましたが、北条氏に謀られ、一族とともに討たれています。現在その館跡は、畠山重忠史跡公園となっています。