2014年4月アーカイブ

  • 読み:こくらじょう
  • 別名:勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城
  • 所在地:福岡県北九州市小倉北区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:毛利氏、細川氏、小笠原氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成24年11月24日

小倉城は、関門海峡の西の入口にあたる紫川河口の西岸に築かれた城です。豊臣秀吉の九州攻略後に毛利勝信によって築かれたのが始まりとされていますが、この頃の小倉城はもっと小規模のものでした。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功績により、細川忠興が豊前1国と豊後2郡の40万石で小倉に入部すると、慶長7年(1602)より6年の歳月をかけて小倉城の大改修を施しました。

寛永9年(1632)に細川氏が肥後へ転封となると、代わって播磨明石城から小笠原氏が15万石で入部。以後、廃藩置県まで小笠原氏が小倉藩主を努め、九州の北東端において九州諸大名の監視の役目を負います。小笠原氏の時代には城内下屋敷に回遊式庭園も造られましたが、天保8年(1837)に本丸御殿と天守が全焼。天守は以後再建されることはありませんでした。

慶応2年(1866)、第二次長州征伐において小倉城は西から長州藩を攻める拠点となります。小倉城は高杉晋作の率いる長州軍に攻められ、8月1日、小倉軍は城に火を放ち熊本へ撤退します。後に小倉藩は再び小倉城へ戻ってきますが、城は藩庁としての機能を有さず、代わりに奉行所が藩庁として利用されました。

明治8年(1875)、小倉城跡に陸軍歩兵第14連隊と歩兵第12旅団本部が置かれます。明治10年(1877)の西南戦争においては、歩兵第14連隊が乃木希典大将に率いられて出陣しています。明治31年(1898)からは陸軍第12師団の司令部が置かれますが、太平洋戦争後に米軍により接収されます。昭和32年(1957)に接収は解除され、昭和34年(1959)、鉄筋コンクリート造の復興天守が築かれました。

西の口門。

西の口門前から北側の濠を見たところ。

西の口門から松丸を見たところ。

松丸と本丸をつなぐ鉄門。

鉄門の少し東にある井戸の跡。

松丸と本丸をつなぐもう一つの門・槻門。

松の丸の下に設けられた大手門。
本丸と大手門代わりと近くに造られています。

大手門前から見た松丸の石垣。

本丸内部。

本丸から見た復興天守。
往時の天守は破風のない南蛮式の天守でした。

天守の脇に設けられた櫓。

月見櫓。
現在はぬか漬け販売処・糠蔵となっています。

月見櫓の脇に設けられた多聞口門。
本丸と北の丸をつないでいます。

多聞口門前から本丸(右)と北の丸(左)の間の堀を見たところ。

北の丸の北の入口に設けられた八坂神社の門。

八坂神社の門前から北の丸(左)と二の丸(右)の間の濠を見たところ。

上の写真から反対側を見たところ。

北の丸内部。
昭和9年(1934)に遷座された八坂神社が鎮座しています。

本丸北東の下屋敷付近から見た復興天守。

大手門の東に設けられた大手先門。

関門海峡の西の入り口に築かれた海城です。九州北東端において九州諸大名に睨みを効かせていました。現在は勝山公園となっています。