2014年7月アーカイブ

  • 読み:やまなかじょう
  • 別名:-
  • 所在地:静岡県三島市・田方郡函南町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:北条氏、松田氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和9年1月22日)
  • 訪問日:平成25年6月8日

山中城は、箱根峠の伊豆側に東海道を取り囲む形で築かれた山城です。永禄年間(1558~1570)に北条氏康によって武田氏への備えとして築かれたのが始まりです。天正15年(1587)から豊臣秀吉に備えて城の拡張工事が始まり、天正18年(1590)2月に秀吉の小田原征伐が始まるまで工事は続けられました。岱崎出丸はこの時に築かれましたが、工事は未完成で終わっています。豊臣方は羽柴秀次を山中城攻略の総大将とし、3月29日、7万の軍勢で山中城を攻めわずか半日で陥落。城主・松田康長は戦死し、その後、山中城は廃城となりました。

三の丸の堀。右側が三の丸。

二の丸の下の田尻池。
もとは箱井戸とともに1つの湿地帯でしたが、築城にあたって2つの池に整備されました。

田尻池付近から見る元西櫓下の堀切。

田尻池から西の丸へ向かうと現れる土橋。

西の丸下の土橋から西櫓方面を見たところ。
西の丸を囲む堀には畝が設けられています。

西の丸の虎口。

広々とした西の丸。
写真奥(西)には細長い見張台が設けられています。

西の丸の西端に設けられた見張台。

西の丸見張台から見た西の丸と西櫓の間の堀。
格子状の畝が大きな特徴で、「障子堀」と呼ばれる北条氏独特の構造物です。

西の丸の西に設けられた西櫓。

西櫓(右)と西の丸(左)の間の障子堀。
往時は滑りやすい赤土がむき出しで、ここに落ちると再び這い出るのは困難であったといいます。

西の丸から北の丸への通路の北側斜面。
段々の曲輪が見えます。

元西櫓の北に設けられた溜池。
北の丸、本丸、元西櫓、西の丸の排水がここに集まるようになっていました。

城の最北端に設けられた北の丸。
こちらも広々としたスペースの曲輪です。

北の丸を取り囲む堀。
かすかに畝の跡が見えます。

北の丸(右)と本丸(左)の間の堀。
こちらにも堀底の畝が見て取れます。

本丸。
2段に分けられていました。
写真奥は天守台跡。

城の最高所に当たる天守台。
実際に建っていたのは井楼や高櫓程度のものだったと考えられています。

本丸の下の段。

さらにその下(南)に設けられた兵糧庫・弾薬庫の置かれた曲輪。

兵糧庫・弾薬庫の置かれた曲輪の東には駒形諏訪神社が鎮座しています。

本丸(右)と二の丸(左)の間の畝堀。

本丸の西端から二の丸を見たところ。

本丸の西に設けられた二の丸(別名北条丸)。
南側へ傾斜しています。

二の丸の西端に設けられた櫓台。

二の丸の西虎口。

二の丸の西、西の丸の東に設けられた元西櫓。
元々はここが山中城の西の端だったということでしょうか。

二の丸の南虎口。
入口は急な坂になっています。

二の丸の南虎口から降りてきたところにある箱井戸の池。
箱井戸と田尻池の間には土塁が設けられ、排水口によって箱井戸から田尻池へ水を落とすようになっていました。

三の丸に建つ宗閑寺。
山中城の攻防戦で戦死した将兵の菩提を弔っています。

旧東海道。
山中城はその城域に東海道を取り込んでいました。

岱崎出丸

岱崎出丸は、豊臣秀吉の進攻に備えて築かれた出丸です。一部に未完成の部分が残っています。岱崎出丸は一部が函南町にかかっています。

岱崎出丸への登り口。

御馬場曲輪。

御馬場北堀。

御馬場曲輪の西に設けられた出丸御馬場堀。

岱崎出丸の北辺に設けられた一ノ堀。
畝がはっきりと残っています。

すりばち曲輪の東に設けられた櫓台。

岱崎出丸最西端に設けられたすりばち曲輪。
名前の通り曲輪の真ん中が窪んだすり鉢状の地形になっています。

すりばち曲輪の櫓台から見た岱崎出丸。

櫓台から臨む三島市外。
その向こうには駿河湾が見えます。

箱根峠の伊豆側の東海道沿いに築かれた城です。北条氏の西への備えとして築かれましたが、小田原征伐で豊臣方に攻められ半日で陥落しました。北条氏の城の大きな特徴である畝堀と障子堀がよく残っています。日本100名城。

  • 読み:はこねせきしょ
  • 別名:-
  • 所在地:神奈川県足柄下郡箱根町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:江戸幕府
  • 文化財指定:国指定史跡(大正11年3月8日)
  • 訪問日:平成25年6月8日

箱根関所は、江戸幕府によって元和5年(1619)に東海道に設置された関所です。屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地を利用して設置され、東海道の新居関所、中山道の碓氷関所、木曽福島関所と並ぶ最大規模の関所でした。一般に江戸時代の関所では、「入り鉄砲に出女」を取り調べていましたが、箱根関所では特に江戸からの出女が厳しく取り調べられました。明治2年(1869)、明治新政府により全国の関所が廃止され、箱根関所も廃止されました。大正11年(1922)に国の史跡に指定され、平成19年(2007)に関所跡全体が復元されています。

箱根関所の京都側の入口・京口御門。

京口千人溜。
旅人たちが関所改めを待つ場でした。

京口御門をくぐったところ。
道の両側に番所が建ち、奥には江戸口御門が見えます。

ここで取り調べが行われていました。

大番所内の面番所での取り調べの様子を再現した人形。
往時の着物の色彩については記録が無いため、あえて人形には色を付けなかったとのことです。

街道の山側に建つ足軽番所。
足軽の部屋のほか、馬小屋や獄屋(牢屋)がありました。

山側の高台に設けられた遠見番所への坂道。

遠見番所。
2名の足軽が交代で24時間体制で芦ノ湖や街道沿いを見張っていました。

遠見番所から箱根関所全体を見下ろしたところ。

江戸側の入口・江戸口御門。

江戸側にも京都側と同様に江戸口千人溜が設けられていました。

江戸口御門の湖側には矢場が設けられていました。

江戸幕府によって江戸防衛のために東海道の芦ノ湖畔に設置された関所です。現在は建物が復元され、箱根関所資料館が開設されています。