2014年9月アーカイブ

  • 読み:あさひやまじょう
  • 別名:朝日山城
  • 所在地:長野県長野市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:武田氏、長尾・上杉氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成25年9月7日

旭山城は、長野盆地の西にそびえる標高785メートルの旭山頂上部に築かれた山城です。築城次期は不明で、元は善光寺の詰城でしたが、天文24年(1555)の第二次川中島合戦(犀川の戦い)において武田氏に取り立てられました。今川義元の仲介で和睦がなると、和睦の条件として旭山城は長尾方によって一旦破却されますが、弘治3年(1557)の第三次川中島合戦で武田方が葛山城を落城させると、長尾方が旭山城を取り立て再建しています。永禄4年(1561)の第四次合戦以降は武田方の支配下にありましたが、その後記録に登場しなくなり、武田氏の本拠が海津城(松代城)に置かれるようになった頃には廃城となったと考えられます。

南麓に設けられた朝日山観音堂。
最近になってこの地に移ってきたものです。

観音堂から尾根沿いを登って行くと登城口が現れます。

登城口から5分ほど登ったところに現れる馬場と呼ばれる曲輪。

主郭(左)の東、二郭(右)との間に設けられた堀切。

約30メートル✕40メートルの方形の主郭。
往時は周囲を土塁と石積が囲んでいました。

主郭には石がごろごろとしています。

主郭(左)の西、倉屋敷(右)との間に設けられた堀切。

主郭の西に設けられた倉屋敷と呼ばれる曲輪。

主郭の南に設けられた腰曲輪。
主郭南には腰曲輪が3段あり、追手口から主郭へ至る道の防備のために設けられていました。

腰曲輪には石積の残る箇所もあります。

主郭の東に設けられた二郭。
尾根伝いに東へと伸びています

二郭の東に設けられた堀切。
二郭の先にはこのような堀切が2本設けられています。

東端の物見台の入口には天然の岩が門のようになっている箇所が見られます。
この写真は物見台側から二郭内部に向かって撮っています。

物見岩と呼ばれる高さ4メートルほどの巨石。

東端に設けられた物見台。
狼煙台も設けられていたと推定されます。

物見台の先端から善光寺平を見下ろしたところ。

善光寺平の西に聳える旭山の山頂部に築かれた山城です。敵の侵入を阻止する主郭群、物資を保管する倉屋敷、物見台と狼煙台の機能を持つ二郭群が有機的に結合しています。

  • 読み:おおさかじょう
  • 別名:金城、錦城
  • 所在地:大阪府大阪市中央区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:豊臣氏、徳川氏
  • 文化財指定:国指定特別史跡(昭和30年6月24日)
  • 訪問日:平成25年10月12日、平成28年7月16日

大坂城は、淀川の南岸、上町台地の北端部に築かれた城です。天正11年(1583)、元々あった石山本願寺の跡地に羽柴秀吉が築城を開始したのが始まりです。本丸の造営には1年半かかり、慶長4年(1599)に豊臣秀吉(天正14年(1586)に賜豊臣姓)が死ぬまでに5層の天守、二の丸、三の丸、惣構が建造されました。築城者である秀吉自身は京都に聚楽第、伏見城を築き、主にそちらに居城しています。秀吉の死後、まだ幼い嫡男秀頼が大坂城に入り、実質的に政権を掌握していた徳川家康も西の丸に入り政務を執ります。家康は西の丸に天守を築き、大坂城には天守が2つある状態となりました。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで家康の東軍が勝利し、江戸に幕府が開かれた後も、秀頼は大坂城に在城し、摂津、河内、和泉の3カ国を領有していました。慶長19年(1614)、家康は20万の大軍を率いて大坂城を包囲、攻撃します(大坂冬の陣)が、大坂城は落ちず、和議を結ぶこととなります。この和議の条件として大坂城は二の丸と三の丸を破却し、外濠を埋めることとなりました。翌慶長20年、家康は再び大坂城を攻撃(大坂夏の陣)。5月7日、本丸と内濠だけとなっていた大坂城はついに落城し、秀頼と淀殿は自害、豊臣氏は滅亡しました。

その後、大坂城は一旦松平忠明に与えられ、元和5年(1619)から天領となり、2代将軍徳川秀忠のもとで新たな大坂城の築城が始まり、寛永6年(1629)に完成します。新たな大坂城には白亜の天守が建てられましたが、寛文5年(1665)に落雷によって焼失し、以後、天守は建てられないままでした。幕末の慶応3年(1867)12月、王政復古の大号令の後、二条城を追われた15代将軍慶喜は大坂城に居城。翌慶応4年1月3日に戊辰戦争が勃発し、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が新政府軍に敗れると、慶喜は船で江戸へ退却。大坂城は新政府軍に明け渡されますが、この前後の混乱で御殿や櫓などほとんどの建物が消失しています。

戊辰戦争後は大坂城は陸軍用地となり、大阪鎮台が置かれます。昭和6年(1931)徳川期の天守台の上に豊臣の黒い天守と徳川の白い天守を折衷した姿の復興天守が鉄筋コンクリートで建造されます。第2次世界大戦後、陸軍用地は米軍に接収され、昭和23年(1948)に接収が解除されると大阪城公園として整備が進められ、現在に至っています。

大手前交差点付近から見た西外濠。

大手前交差点付近から見た乾櫓(現存)。
国の重要文化財に指定されています。

大手前交差点から大手門方向を見たところ。

大手門前から見た西外濠。

大手門前から見た千貫櫓(現存・国指定重要文化財)。

南側から見た大手門(現存・国指定重要文化財)。

馬場町交差点付近からみた南外濠。
石垣の水面からの高さは20メートルを超える。
写真に移っている櫓は六番櫓(現存・国指定重要文化財)。

大手門。

大手門の枡形。

表面積47.98平方メートルの大手見付石。
大坂城内で4番目に大きな石です。

本丸の空濠を南西隅から東に向かって見たところ。

本丸の空濠を南西隅から北に向かって見たところ。

二の丸に展示されている石垣の石。

二の丸の西と南を仕切る南仕切門。
石垣の上には太鼓櫓が設けられていました。

二の丸の六番櫓付近には石山本願寺推定地の説明板が立っています。

二の丸に鎮座する豊国神社と豊臣秀吉像。
豊国神社には秀吉が祀られています。

本丸への南からの入り口に当たる桜門(明治20年再建)。

桜門前から東側の空濠を見たところ。

桜門枡形の蛸石。
表面積60平方メートル。

本丸内部に建つ旧大阪市立博物館。
元は陸軍第四師団司令部庁舎でした。

本丸に建つ大阪城復興天守。
本来ここには徳川期の白亜の天守が建っていましたが、昭和6年(1931)に豊臣・徳川折衷型の復興天守が建てられました。
歴代天守の中で最も長く立ち続け、登録有形文化財になっています。

本丸から内濠を隔てて西の丸を見たところ。

山里口出枡形の内濠に向かって石垣が門状に開いた箇所。
本丸西の腰曲輪へつながっています。

山里口出枡形。

本丸の北に設けられた山里曲輪には刻印石広場が設けられています。

刻印石広場の石材。
刻印が刻まれています。

山里曲輪の北に架かる極楽橋から復興天守を見たところ。

二の丸の北側部分。

二の丸の北側部分から北外濠を見たところ。

二の丸の東側部分に広がる梅林。

二の丸から見た青屋門(昭和45年再建)。

青屋門から東外濠を見たところ。

京橋口。

東外濠越しに巽櫓方面を見たところ。

東外濠。

大阪城音楽堂付近の土塁。

南外濠の南東隅から西側を見たところ。
右に残る櫓は一番櫓(現存・国指定重要文化財)
大坂城には7基の櫓が建てられましたが、現存するのは一番櫓と六番櫓だけです。

南外濠の南東隅から北側を見たところ。

玉造口の坂道。

玉造口の石垣。

玉造口から見た復興天守。

内濠の南東隅から北側を見たところ。

淀川南岸の上町台地の北端部に築かれた大城郭です。復興天守は大阪のシンボルとして市民に親しまれています。日本100名城に選定されています。

  • 読み:なにわのみや/なんばきゅう
  • 別名:-
  • 所在地:大阪府大阪市中央区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:天皇家
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和39年5月2日)
  • 訪問日:平成25年10月12日

難波宮は、淀川南岸に築かれた皇居です。皇極天皇5年(645)に起きた乙巳の変で蘇我氏が滅亡すると、大化元年(645)12月、36代孝徳天皇は難波に遷都し、都を建造します。翌大化2年1月に改新の詔を発し、大化の改新が始まります。この頃の建物はすべて掘立式であったことが発掘調査からわかっています。斉明天皇元年(655年)1月、飛鳥に戻っていた35代皇極天皇は37代斉明天皇として再び践祚。複都制を敷き、飛鳥板蓋宮とともに難波宮も都としますが、朱鳥元年(686)1月に難波の宮室が全焼。持統天皇8年(694)に都が藤原宮へ移されると、難波宮は廃されました。645年~694年までの難波宮を前期難波宮といいます。

神亀3年(726)、45代聖武天皇は、難波京の造営を進め、難波京を副都とします。天平15年(744)に難波京へ遷都しますが、翌天平16年1月1日に紫香楽宮へ遷都しています。この難波宮は後期難波宮といい、建物には礎石が用いられていました。

後期難波宮の大極殿跡。
基壇が復元されています。

前期難波宮の八角殿跡。
現在は八角形の藤棚が造られています。

後期難波宮の五間門跡。
基壇が復元されています。

前期難波宮の朝堂院西第1堂跡。
前期の建物はすべて掘立式でした。

飛鳥時代と奈良時代のごくわずかな期間の皇居でした。現在は難波宮跡公園として整備されています。

  • 読み:なめかたしやかた
  • 別名:-
  • 所在地:東京都大田区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:行方氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成25年9月8日

行方氏館は、呑川の北岸に築かれた館です。北条氏の家臣で六郷領を支配していた行方弾正直清が居住していました。直清は、天正18年(1590)の小田原征伐で北条方として戦い討死。その後、弟の日芸が直清の供養塔を建て、館を円頓寺としました。

行方氏館跡。
現在は日蓮宗円頓寺となっています。

日芸が建てた直清の供養塔。

呑川北岸に築かれた館です。現在は日蓮宗円頓寺となっています。敷地内の墓地には行方弾正直清供養塔が建っています。

  • 読み:さいとうしやかた
  • 別名:-
  • 所在地:東京都大田区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:斉藤氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成25年9月23日

斉藤氏館は、呑川の南岸に築かれた館です。この辺りを支配していた豪族・斉藤氏が居住していました。永禄年間(1558~1570)に地頭・行方修理亮義安が没すると、その後室が兄・斉藤政賢の館内に庵を結びます。天正17年(1589)、後室が没すると、庵は妙安寺となりました。

日蓮宗妙安寺の正門。
妙安寺を開いた妙安尼の供養塔が建っています。

館跡に建つ妙安寺。

妙安寺に隣接する蒲田八幡神社。
こちらも館の敷地でしたが、遺構はありません。

呑川南岸に築かれた館です。現在は日蓮宗妙安寺と蒲田八幡神社の敷地となっています。