2015年1月アーカイブ

  • 読み:まつやまじょう
  • 別名:勝山城、金亀城
  • 所在地:愛媛県松山市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:加藤氏、蒲生氏、久松松平氏、
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和27年3月29日)
  • 訪問日:平成26年2月6日

松山城は、道後平野に聳える独立峰・勝山に築かれた平山城です。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍に属しその戦功を認められ20万国に加増された伊予正木城の加藤嘉明が、慶長7年(1602)から新たな居城として築城を始めました。このころの天守は五重であったといいます。寛永4年(1627)、松山城の完成直前に嘉明は会津へ転封となり、代わって蒲生忠知が松山に入封します。しかし、忠知は寛永11年(1634)8月に参勤交代の途中で死去。忠知に後継ぎはなく、蒲生家は断絶します。翌寛永12年、松平定行が15万石で松山に入封。寛永19年(1642)には、五重だった天守を三重に改築しています。この天守は天明4年(1784)に落雷により焼失してしまいますが、安政元年(1854)に再建されています。幕末、松山藩は幕府側に与したため、慶応4年(1868)の戊辰戦争では朝敵として追討され、1月27日に戦わずして松山城を土佐藩に開城しています。

明治になると本丸一帯は公園として整備され、山麓の二の丸・三の丸には松山歩兵第22連隊が置かれました。大正12年(1923)、本丸が旧藩主の久松家への払い下げを経由して松山市へ寄贈されます。その後、昭和に入ると小天守や櫓などが放火や空襲などにより焼失しますが、昭和41年(1976)から木造による復元が進められました。平成4年(1992)には二の丸の庭園が復元整備されています。

ロープウェー東雲口駅付近の石垣。

ロープウェーを降りたところにある長者ヶ平。

長者ヶ平から本丸へと向かう坂道。

下から見上げる巽櫓。
空襲で焼失したものを再建したものです。

大手門付近から太鼓櫓を見たところ。奥には連立天守が見えます。

二の丸から大手門へ登ってくるところ。

二の丸側から見た大手門。

戸無門。創建当初から門扉がないため戸無門と呼ばれています。

戸無門をくぐり180度向きを変えると現れる筒井門(戦後の放火により焼失、再建)。
この時は修復工事中でした。

筒井門をくぐったところから見る太鼓門(空襲により焼失、再建)。

筒井門をくぐったところから見る太鼓櫓(空襲により焼失、再建)。

太鼓門をくぐったところから見る太鼓櫓。

太鼓櫓付近から見る本丸。
奥に連立天守、左の木に隠れて馬具櫓(空襲により焼失、再建)が見えます。

馬具櫓付近から西麓を見下ろすと、二の丸が見えます。

二の丸の土塁。
本丸からでもわかるほど巨大なものです。

西麓遠望。
松山市街の向こうに伊予灘が見えます。

太鼓門付近の井戸。
深さは40メートル以上あります。

馬具櫓付近から見る乾櫓。

南から見た連立天守
連立天守は本丸より8メートルほど高くなった本壇の上に築かれています。
中央に三重の大天守(現存)、左に小天守(戦前の放火により焼失、再建)、中央手前に一ノ門南櫓(現存)、右に二ノ門南櫓(現存)が見えます。

東から見た連立天守の天神櫓(空襲により焼失、再建)。

本丸北東端に設けられた艮門(空襲により焼失、再建)。

連立天守の北側。

北から見た連立天守北隅櫓(戦前の放火により焼失、再建)。
奥には野原櫓(現存)が見えます。

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本丸の北西に設けられた野原櫓。
加藤嘉明の築城当初の仕様がほぼそのまま残る櫓です。

西から見た連立天守10軒廊下と南隅櫓(いずれも戦前の放火により焼失、再建)。

本丸北東端に設けられた乾門(空襲により焼失、再建)と乾櫓(現存)。

乾門の外から見る乾櫓。

古町口登城道から見る乾門と連立天守。

古町口登城道から見る野原櫓。

北西麓へ続く古町口登城道。

連立天守の南に設けられた紫竹門(現存)。
奥には連立天守の南隅櫓、多門櫓(戦前の放火により焼失、再建)、小天守の下半分が見えます。

本壇

。三ノ門南櫓(現存)と一ノ門南櫓の間に設けられた一ノ門(現存)。

一ノ門をくぐるり北に90度曲がると現れる二ノ門(現存)。
三ノ門南櫓と二ノ門南櫓の間に設けられています。

二ノ門をくぐるって180度振り返ると二ノ門(左奥)と三ノ門(右、現存)が見えます。
三ノ門南櫓と二ノ門南櫓の間に設けられています。

三ノ門をくぐって90度西に曲がると筋鉄門(戦前の放火により焼失、再建)が現れます。
大天守と小天守の間に設けられています。

筋鉄門をくぐって90度北に曲がると内門(戦前の放火により焼失、再建)が見えます。

北隅櫓の脇に設けられた玄関。

連立天守内部への入口。

連立天守の内部に設けられた石落とし。

連立天守の内部には鉄砲狭間も多数設けられています。

天守内部。
床の間が設けられています。

畳が敷かれている場所もあります。

連立天守内部の階段。

大天守最上階。

小天守から見た本丸。

小天守から見た二の丸の堀。

松山市街のほぼ中央、愛媛県庁の背後に聳える勝山に築かれた平山城です。天守は現存十二天守の中では最も新しい安政元年(1854)のものです。日本100名城に選定されています。

  • 読み:こうちじょう
  • 別名:鷹城
  • 所在地:高知県高知市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:山内氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和34年6月18日)
  • 訪問日:平成26年2月8日

高知城は、鏡川と久万川に挟まれた平地に聳える大高坂山に築かれた平山城です。南北朝時代に大高坂氏が築城した大高坂城が前身で、大高坂松王丸が居城したといわれています。大高坂氏は南朝に属し、興国2年(1341)北朝方に攻められて落城し、廃城になっています。

天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐から帰国した長宗我部元親が、大高坂山に築城を始めます。しかし、水はけが悪く、水害の起きやすい場所であったことから、天正19年(1591)に大高坂山城を放棄。桂浜に近い山の上にa href="http://kojou.sakura.ne.jp/2015/01/post_249.html">浦戸城を築いています。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると、西軍に与した元親の子・盛親は改易され、代わって山内一豊が土佐一国24万2千石でa href="http://kojou.sakura.ne.jp/2015/01/post_249.html">浦戸城に入ります。一豊は大高坂山城の造営と周囲の治水工事に着手し、慶長8年(1603)に本丸と二の丸が完成。「河中山城(こうちやまじょう)」と改名します。しかし、慶長15年(1610)、水害に見舞われたことから河中の文字を嫌い「高智山城」と改め、後に高知城、町の名も高知となります。高知城は翌慶長16年に三の丸が竣工し、完成しています。享保12年(1727)、高知城下で大火が発生し、城は追手門以外のほとんどが焼失してしまいます。現在見られる高知城の建物は、その後に再建されたもので、四重六階の天守も寛延2年(1749)に再建されたものです。明治に廃藩置県を迎えると、高知城は高知公園となり現在に至っています。

城の南東端から見た追手門脇の水堀。

城の南東端に設けられた御馬場。

追手門前からまっすぐ東へ延びる追手道。

追手門脇の土佐藩初代藩主山内一豊の像。

追手門。
寛文4年(1664)に再建されたものです。

城の北東から入ったtころにある曲輪。
往時は侍屋敷が建ち並んでいたようです。

追手門をくぐると現れる板垣退助像。
板垣退助は土佐藩の出身で、戊辰戦争では明治政府軍に与し迅衝隊総督として土佐藩を率いて戦い、後に自由民権運動の中心人物となりました。

杉の段へと至る坂道。

杉の段と三の丸の石垣。

杉の段入口から本丸方面を見たところ。

杉の段入り口から三の丸の南東端部の石垣を見たところ。

鉄門前から見上げる現存天守。

鉄門。
往時は門扉に多数の鉄板が打ち付けられていたことからその名がついています。

鉄門をくぐり西に90度曲がると、本丸と二の丸の間に設けられた詰門が現れます。
門内に侵入した敵が一直線に通り抜けられないよう両の出入口は筋違いになっています。

鉄門と詰門の間から見る三の丸。
往時は三の丸御殿が建っていました。

二の丸から詰門と本丸を見たところ。

詰門の2階は二の丸と本丸をつなぐ渡り廊下になっています。

本丸御殿と天守。

本丸御殿内部。
本丸御殿が現存する城は数が少なく、見学まで出来るのは高知城だけです。

本丸御殿内部。

凝った装飾の欄間が見られます。

本丸御殿の庭園。

本丸御殿(左)と天守(右)の屋根が重なるところ。
本丸御殿と天守は一見繋がってるように見えますが、このように別々の建物であることがわかります。

天守1階。

天守内部。

階段は急です。

天守最上階(6階)。

天守6階から西多聞、廊下門、東多聞、詰門を見下ろしたところ。

天守6階から見た二の丸。
往時には藩主の住まいである二の丸御殿が建っていました。

東多聞。

西多聞。
奥には連立天守の南隅櫓、多門櫓(戦前の放火により焼失、再建)、小天守の下半分が見えます。

東多聞内部。

高知市街のほぼ中央、高知県庁背後の大高坂山に築かれた平山城です。天守を始めとする本丸の建造物がそっくり現存している全国唯一の城です。日本100名城に選定されています。

  • 読み:うらどじょう
  • 別名:-
  • 所在地:高知県高知市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:本山氏、長宗我部氏、山内氏
  • 文化財指定:高知市指定史跡(平成6年3月1日)
  • 訪問日:平成26年2月8日

浦戸城は、桂浜の北西に聳える浦戸山に築かれた平山城です。16世紀の初め頃に、朝倉城を本拠とする本山氏が、支城として築いたのが始まりとされています。永禄3年(1560)の長浜の戦いで長宗我部氏が本山氏を滅ぼすと、浦戸城は岡豊城を本拠とする長宗我部氏の支城となります。

天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐から帰国した長宗我部元親が、大高坂山に新たな本拠の築城を始めます。しかし、水はけが悪く、水害の起きやすい場所であったことから、天正19年(1591)に大高坂山城を放棄。浦戸城を築き、拠点を移しています。近年では、浦戸城は朝鮮出兵に備えて築かれた臨時の拠点であり、後々大高坂山城に本拠を戻すつもりだったのではないかと考えられています。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると、西軍に与した元親の子・盛親は改易され、代わって山内一豊が土佐一国24万2千石で土佐藩主となります。しかし、長宗我部旧臣の抵抗のため一豊は土佐へ入国できず、幕命を受けた井伊直政が家臣を城の受け取りに向かわせます。長宗我部旧臣は土佐一揆と呼ばれる50日間に及ぶ抵抗を行いますが、策謀によって鎮圧され、長宗我部旧臣273名が殺害されました。翌慶長6年、ようやく一豊が浦戸城に入城しますが、手狭であることから高知城の築城を開始。慶長8年(1603)に本丸と二の丸が完成し移ったため、浦戸城は廃城となりました。

桂浜から見る浦戸城。

桂浜稲荷神社の脇に残る堀切。

坂本龍馬記念館の駐車場(詰の段)から見る天守台。三重の天守が建っていたと考えられています。

詰の段に残る土塁。

天守台の下に移築された石垣の一部。

天守下に立つ浦戸城の碑。

天守台には城八幡と大山祇神社が鎮座しています。

詰の段の井戸跡。

詰の段から見る土佐湾。

桂浜の北西に聳える浦戸山に築かれた平山城です。岡豊城に代わる長宗我部氏の拠点でした。現在は坂本龍馬記念館と桂浜荘が建ち、遺構はほとんど残っていませんが、天守台、土塁、堀切が残っています。

  • 読み:うらどほうだい
  • 別名:-
  • 所在地:高知県高知市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:山内氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成26年2月8日

浦戸砲台は、桂浜の竜頭岬付近に築かれた砲台です。もともとこの場所には万治年間(1658~1660)に建設された灯明台がありましたが、寛永15年(1638)に外国船の来航を監視するため土佐藩領内に4箇所の遠見番所が設置され、そのうちの一つが浦戸に置かれました。19世紀になる頃には日本近海に外国船が出没するようになり、文化5年(1808)に大筒が配置され、文久3年(1863)には砲台場が整備されました。なお、砲台は一度も火を噴くことなくその役目を終えています。

闘犬センター裏から坂本龍馬像へ登る石段の脇に残る砲台跡。
この場所は弾薬を貯蔵する場所でした。
手前の石垣は近年積まれたものですが、奥に往時の石垣が見られます。

龍馬像への石段から貯蔵施設跡を見たところ。

貯蔵施設跡から石段を登ったところに立つ坂本龍馬像。

桂浜に築かれた砲台です。坂本龍馬像と闘犬センターの間に弾薬の貯蔵施設跡が残っています。

  • 読み:はまかわほうだい
  • 別名:-
  • 所在地:東京都品川区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:山内氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成26年3月15日

浜川砲台は、立会川河口の海辺に築かれた砲台です。嘉永6年(1853)のペリー来航に対し、江戸幕府は江戸湾の海上に砲台を築きます(品川台場)が、土佐藩も品川宿の土佐藩下屋敷近くの立会川河口に砲台を築き、異国船の出没に備えました。この砲台では、坂本龍馬も警備の任にあたっていました。砲台は火を噴くことなくその役目を終え、現在では周囲は住宅地となり、目の前に広がっていた海も埋め立てられて勝島運河となっています。

立会川河口にわずかに残る浜川砲台の礎石。
平成16年(2004)に付近の建築工事の際に発掘されたものです。

立会川河口に築かれた砲台です。現在では周囲は住宅地となっていますが、付近の建築工事の際に発掘された礎石を見ることができます。

PC

マザーボードASROCK FM2A88X-ITX+
CPUAMD A8-7600 3.10GHz
CPUクーラーリテールクーラー
メモリ8GB
HDDシステム1TB 内蔵80GB 外付け150GB
グラフィックボードオンボード
ディスプレイメインDELL E1913c サブViewSonicVE500
OSMicrosoft Windows10 64bit
  • 読み:ゆかわじょう
  • 別名:-
  • 所在地:長野県茅野市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:武田氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成26年4月5日

湯川城は、南の渋川と北の滝の湯川に挟まれた高台に築かれた城で、天文年間(1532~1555)に武田信玄によって築かれたとされています。湯川城は、南側の原の城と北側の枡形城に分かれ、両城の間には砦の沢と呼ばれる全長1キロ余りの深い堀が設けられていました。大門街道の道筋で佐久方面・小県方面への進攻や川中島出兵の拠点として利用されました。

原の城の伝大手口を見下ろしたところ。

伝大手口の上から原の口城内部を見たところ。
遺構はほとんど消失しています。

原の口城から西側に設けられた朝倉山城(写真中央の山)を見たところ。

伝大手口の東側に残る堀。堀の向こう側には土塁が残っているとのことです。

原の口城と枡形城を隔てていた砦の沢と呼ばれる大堀切。
全長1キロ余りに及ぶ長大な堀切は耕地化によりほとんどが埋められましたが、西側には遺構が残っています。

丸馬出跡から見る枡形城。

同じく丸馬出跡から見る枡形城。
奥には朝倉山城が見えます。

霧ヶ峰高原の南麓、渋川と滝の湯川に挟まれた高台上に築かれた城です。ほとんどが耕地化していますが、堀宿類の跡が残されています。

  • 読み:きょうとごしょ
  • 別名:京都皇宮
  • 所在地:京都府京都市上京区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:天皇家
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成26年4月20日

京都御所は、鴨川西岸の平地に築かれた御所です。元々は臨時の内裏である里内裏が設けられていましたが、南北朝時代から内裏の所在地として定着し、明徳3年(1392)の南北朝合一以降、正式な皇居となりました。当初は1町ほどの大きさでしたが、室町幕府3代将軍足利義満により敷地が拡大され、織田信長、豊臣秀吉による整備を経てほぼ現在の形となりました。その範囲は、北は今出川通に、東は寺町通に、南は丸太町通に、西は烏丸通に接し、南北約1.3km、東西約0.7kmに及びます。近世には200あまりの邸宅が建ち並ぶ公家町となります。明治2年(1869)、明治天皇が東京へ移ると京都御所は荒廃が進み、明治10年(1878)、京都還幸した明治天皇は荒廃の様子を嘆き、京都御所の保全を宮内省に命じました。これを受けて京都御苑の整備が始まり、現在に至っています。なお、現在では禁裏のみが京都御所と呼ばれています。

烏丸今出川から御所の北辺を見たところ。

烏丸今出川から烏丸通を南へ。
乾御門。

烏丸通に面した中立売御門。

御所西辺のほぼ中央に設けられた蛤御門。
元治元年(1864)、この門の周辺で御所の護衛にあたっていた会津藩・薩摩藩・桑名藩と、長州藩の間で戦闘が行われました(蛤御門の変・禁門の変)。
それまでは新在家門と呼ばれていましたが、江戸時代の大火でそれまで常時閉じられていた門が初めて開かれたことから蛤御門の名がついたとされています。

出水口付近。

烏丸通に面した下立売御門。

丸太町通に面した堺町御門。
文久3年(1863)8月18日孝明天皇・中川宮・公武合体派の公家・会津藩・薩摩藩は、三条実美ら激派の公家7人と尊王攘夷派の長州藩を追放摩る政変を起こします。長州藩がこの門に駆けつけた時、門は会津藩と薩摩藩によって固く守られ、長州藩は御所に立ち入ることができず、京都から追放されました(八月十八日の政変)。

寺町今出川付近から御所の東辺を見たところ。

寺町今出川付近から御所の北辺を見たところ。

今出川通に面した今出川口。

乾御門を入ったところにある一条邸跡。
一条家は五摂家の一つでした。

禁裏の北西端から禁裏北辺を見たところ。

禁裏北西端から禁裏西辺を見たところ。

禁裏西辺に設けられた清所門。

禁裏西辺に設けられた宜秋門。

禁裏南西端から禁裏西辺を見たところ。

禁裏南西端から禁裏南辺を見たところ。

禁裏南辺のほぼ中央に設けられた建礼門。
禁裏の正門で最も格式の高い門とされています。

禁裏南東端から禁裏南辺を見たところ。

禁裏南東端から禁裏東辺を見たところ。
すぐ近くに建春門が見えます。

禁裏東辺に設けられた建春門。

禁裏北東端の猿ヶ辻。
鬼門除けのために角が欠かれています。
文久3年(1863)5月には、この近辺で攘夷派の急先鋒であった姉小路公知が殺される事件(猿ヶ辻の変)が起きています。

猿ヶ辻の築地塀が折れ曲がった部分の屋根裏には、烏帽子をかぶった猿の像が見られます。
この猿は鬼門を守る日吉山王神社の使いですが、夜になると動きまわったために金網で閉じ込めたといわれています。

猿ヶ辻の北にある中山邸跡。
中山家は明治天皇の生母・中山慶子の家で、祐宮親王(明治天皇)はここで4年間養育されました。

禁裏北辺に設けられた朔平門。

禁裏の南東には大宮御所と仙洞御所が設けられています。
写真は大宮御所北西端から大宮御所西辺を見たところ。

大宮御所北西端から大宮御所北辺を見たところ。
写真奥には御所東編に設けられた清和院御門が見えます。

下立売御門付近の出水の小川。

御所南西端には閑院宮邸跡があります。
閑院宮家は、伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つでした。

御所の南端、堺筋御門の近くには九条邸跡があります。
九条家は五摂家の一つでした。
現在は池の畔の拾翠亭と九条家の鎮守の厳島神社が残っています。

九条邸跡の池と拾翠亭。

九条家の鎮守の厳島神社。

九条邸跡から禁裏方面を見たところ。

鴨川西岸に設けられた御所です。南北朝時代から明治天皇の東京行幸までのおよそ550年間の皇居でした。