京都御所

  • 読み:きょうとごしょ
  • 別名:京都皇宮
  • 所在地:京都府京都市上京区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:天皇家
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成26年4月20日

京都御所は、鴨川西岸の平地に築かれた御所です。元々は臨時の内裏である里内裏が設けられていましたが、南北朝時代から内裏の所在地として定着し、明徳3年(1392)の南北朝合一以降、正式な皇居となりました。当初は1町ほどの大きさでしたが、室町幕府3代将軍足利義満により敷地が拡大され、織田信長、豊臣秀吉による整備を経てほぼ現在の形となりました。その範囲は、北は今出川通に、東は寺町通に、南は丸太町通に、西は烏丸通に接し、南北約1.3km、東西約0.7kmに及びます。近世には200あまりの邸宅が建ち並ぶ公家町となります。明治2年(1869)、明治天皇が東京へ移ると京都御所は荒廃が進み、明治10年(1878)、京都還幸した明治天皇は荒廃の様子を嘆き、京都御所の保全を宮内省に命じました。これを受けて京都御苑の整備が始まり、現在に至っています。なお、現在では禁裏のみが京都御所と呼ばれています。

烏丸今出川から御所の北辺を見たところ。

烏丸今出川から烏丸通を南へ。
乾御門。

烏丸通に面した中立売御門。

御所西辺のほぼ中央に設けられた蛤御門。
元治元年(1864)、この門の周辺で御所の護衛にあたっていた会津藩・薩摩藩・桑名藩と、長州藩の間で戦闘が行われました(蛤御門の変・禁門の変)。
それまでは新在家門と呼ばれていましたが、江戸時代の大火でそれまで常時閉じられていた門が初めて開かれたことから蛤御門の名がついたとされています。

出水口付近。

烏丸通に面した下立売御門。

丸太町通に面した堺町御門。
文久3年(1863)8月18日孝明天皇・中川宮・公武合体派の公家・会津藩・薩摩藩は、三条実美ら激派の公家7人と尊王攘夷派の長州藩を追放摩る政変を起こします。長州藩がこの門に駆けつけた時、門は会津藩と薩摩藩によって固く守られ、長州藩は御所に立ち入ることができず、京都から追放されました(八月十八日の政変)。

寺町今出川付近から御所の東辺を見たところ。

寺町今出川付近から御所の北辺を見たところ。

今出川通に面した今出川口。

乾御門を入ったところにある一条邸跡。
一条家は五摂家の一つでした。

禁裏の北西端から禁裏北辺を見たところ。

禁裏北西端から禁裏西辺を見たところ。

禁裏西辺に設けられた清所門。

禁裏西辺に設けられた宜秋門。

禁裏南西端から禁裏西辺を見たところ。

禁裏南西端から禁裏南辺を見たところ。

禁裏南辺のほぼ中央に設けられた建礼門。
禁裏の正門で最も格式の高い門とされています。

禁裏南東端から禁裏南辺を見たところ。

禁裏南東端から禁裏東辺を見たところ。
すぐ近くに建春門が見えます。

禁裏東辺に設けられた建春門。

禁裏北東端の猿ヶ辻。
鬼門除けのために角が欠かれています。
文久3年(1863)5月には、この近辺で攘夷派の急先鋒であった姉小路公知が殺される事件(猿ヶ辻の変)が起きています。

猿ヶ辻の築地塀が折れ曲がった部分の屋根裏には、烏帽子をかぶった猿の像が見られます。
この猿は鬼門を守る日吉山王神社の使いですが、夜になると動きまわったために金網で閉じ込めたといわれています。

猿ヶ辻の北にある中山邸跡。
中山家は明治天皇の生母・中山慶子の家で、祐宮親王(明治天皇)はここで4年間養育されました。

禁裏北辺に設けられた朔平門。

禁裏の南東には大宮御所と仙洞御所が設けられています。
写真は大宮御所北西端から大宮御所西辺を見たところ。

大宮御所北西端から大宮御所北辺を見たところ。
写真奥には御所東編に設けられた清和院御門が見えます。

下立売御門付近の出水の小川。

御所南西端には閑院宮邸跡があります。
閑院宮家は、伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つでした。

御所の南端、堺筋御門の近くには九条邸跡があります。
九条家は五摂家の一つでした。
現在は池の畔の拾翠亭と九条家の鎮守の厳島神社が残っています。

九条邸跡の池と拾翠亭。

九条家の鎮守の厳島神社。

九条邸跡から禁裏方面を見たところ。

鴨川西岸に設けられた御所です。南北朝時代から明治天皇の東京行幸までのおよそ550年間の皇居でした。