2015年11月アーカイブ

  • 読み:いぬやまじょう
  • 別名:白帝城
  • 所在地:愛知県犬山市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:織田氏、石川氏、小笠原氏、平岩氏、成瀬氏
  • 文化財指定:国宝(天守)(昭和10年5月13日)
  • 訪問日:平成26年7月12日

犬山城は、木曽川南岸の丘の上に築かれた平山城です。木曽川を臨む丘の上に築かれた城の様子が長江流域の白帝城と重なることから別名白帝城とも呼ばれています。もともとこの地には織田広近が文明元年(1469)に築いた砦がありましたが、文明6年(1537)に織田信康(織田信長の叔父)が居城の木ノ下城を廃し、この地に城を造営して移りました。現在の天守の2回までの部分はこの時あるいは慶長6年(1601)に築かれたと考えられています。永禄7年(1564)、信康の子・信清と信長の対立の末、犬山城は信長に攻め取られ、以後は池田恒興や織田勝長らが城主を務めました。天正10年(1582)の本能寺の変後は、信長の次男・信雄配下の中川定成が城主を務めますが、天正12年(1584)、池田恒興が犬山城を急襲して城を奪取。これが小牧・長久手の戦いのきっかけの一つとなります。小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉は大坂から12万の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣を張った徳川家康と戦っています。

秀吉の時代には、石川貞清が城主を務めますが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したため没落。その後は小笠原吉次、平岩信吉、平岩吉範が城主を務め、元和4年(1617)に尾張藩付家老の成瀬正成が城主となり、以後、廃藩置県まで成瀬氏が城主を務めました。元和6年(1620)頃には天守に3、4階が増築され、さらにその後唐破風などが追加されたと考えられています。

明治5年(1872)の廃藩置県により犬山城は廃城となり、天守以外の建物のほとんどが取り壊されました。明治24年(1891)には濃尾地震で天守東南の付櫓が破損。明治28年(1895)、城の修復を条件に旧犬山藩主成瀬正肥に無償譲渡されます。平成16年(2004)3月の時点では日本で唯一の個人所有の城でしたが、同年4月に財団法人犬山城白帝文庫に移管されています。

木曽川にかかる犬山橋から見る犬山城。

犬山橋から見る犬山城天守。
現存する最古の天守で、国宝に指定されています。

現在の犬山城入口。

かつての水堀。
現在は切り通しの道路として利用されています。

本丸へ向かう登城道。
鉤の手になっています。

その道の脇には中世の面影を残す空堀が見られます。

登城道に設けられた矢来門の跡。
礎石が残っています。
矢来門は専修院東門に移築され現存しています。

黒門の枡形を下から見たところ。

松の丸門跡。
登城道から矢来門を経て、本丸あるいは松の丸(三の丸)へ通じる門でした。
松の丸門は浄蓮寺に移築され現存しています。

桐の丸に鎮座する針綱神社。

杉の丸と樅の丸の間に設けられた登城路。

黒門の枡形を上から見たところ。

岩坂門跡(手前の説明板の立っているところ)と本丸鉄門(復興)。

鉄門付近から見た本丸。
左奥に天守が建っています。

天守。

城の北東に設けられた七曲門の跡。

七曲門跡付近から木曽川を見たところ。

天守内部

天守1階上段の間。
一段高くした床に畳が敷き詰められ、床の間も設けられています。

天守2階武者走。

天守の階段は急です。

天守4階。
成瀬家7代当主正尋はオランダ商館長と親交があったことから天守最上階に絨毯を敷いていたと伝えられ、その様子が再現されています。

天守4階から本丸を見たところ。
鉄門、小銃櫓(再建)が見えます。

天守4階から北西を見たところ。
眼下に木曽川の流れとライン大橋が見えます。

濃尾国境を流れる木曽川の南岸に築かれた平山城です。最古の現存天守は国宝に指定されています。日本100名城。