2015年12月アーカイブ

  • 読み:たてばやしじょう
  • 別名:尾曳城
  • 所在地:群馬県館林市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:赤井氏、足利長尾氏、北条氏、榊原氏、徳川氏、秋元氏
  • 文化財指定:館林市指定史跡(昭和48年4月1日)
  • 訪問日:平成26年8月15日

館林城は、利根川と渡良瀬川に挟まれた平地の城沼の畔に築かれた平城です。築城年代は諸説ありますが、享禄3年(1530)に赤井照光によって築かれたとされ、この時狐が尾で地面に線を引いて城の縄張を教えてくれたという伝説から、別名尾曳城と呼ばれています。永禄5年(1562)、上杉謙信が関東へ出征すると、赤井氏は戦うことなく降伏して武蔵忍城へ退き、館林城には足利長尾氏が入りました。天正16年(1588)には北条氏に奪われますが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐では石田三成、大谷吉継らの軍勢に囲まれ開城しています。

北条氏滅亡後に徳川家康が関東へ移封されると、徳川四天王の一人・榊原康政が10万石で館林に入り、城下町を整備しました。寛文元年(1661)には徳川綱吉が25万石で入城。綱吉は延宝8年(1680)に江戸幕府5代将軍となり、館林城は将軍を輩出した城として知られるようになります。その後、井上氏、秋元氏らが城主となり、秋元氏の時代に明治5年(1872)の廃藩置県を迎えます。残った城の建物は明治7年(1874)に起きた大火でほとんどが消失しましたが、現在も土塁の一部が残っています。

三の丸に設けられた土橋門(復元)。

土橋門を裏側から。
現存土塁の上に塀が復元されています。

三の丸と外郭を隔てていた千貫門跡。

僅かに残る本丸土塁。

本丸土塁の脇に残る井戸の跡。

本丸の南に設けられた八幡郭。

本丸と八幡郭を隔てる土塁。
矢来門は専修院東門に移築され現存しています。

本丸内に鎮座する八幡宮。
元は八幡郭にありましたが、明治の終わり頃に本丸へ遷されました。

八幡宮の背後、八幡曲輪に建つ旧秋元別邸。
明治維新後に子爵となった秋元氏の別邸です。

かつて館林城を取り囲んでいた城沼。
現在は城域内の池は大部分が埋められています。

城域の北東に設けられた尾曳郭に鎮座する尾曳稲荷神社。

城沼の畔に築かれた平城です。5代将軍徳川綱吉を輩出した城として知られています。建物は殆ど残っていませんが、一部に土塁が見られます。

  • 読み:あしかがしやかた
  • 別名:-
  • 所在地:栃木県足利市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:足利氏
  • 文化財指定:国指定史跡(大正11年3月8日)
  • 訪問日:平成26年9月5日

足利氏館は、渡良瀬川北岸の平地に築かれた単郭式の城館です。12世紀の半ばに源義国とその子・義康(足利氏の祖)の二代に渡り土塁と堀を築いて居を構えたのが始まりとされています。建久7年(1196)には義康の子・義兼が僧の理真を招聘し、邸宅を撤去して持仏堂と堀内御堂を建立しました。これが鑁阿寺の始まりです。文暦元年(1234)には足利義氏が伽藍を整備し、鑁阿寺は足利氏の氏寺となりました。

南側の虎口に設けられた仁王門(県文化財)。
義兼が建てた仁王門は室町時代に消失し、永禄7年(1564)に再建されています。

居館を取り囲む堀を仁王門から見たところ。

仁王門の虎口付近の土塁。

上の写真の土塁より少し離れたところの土塁。

鑁阿寺境内。
奥に建つのは正安元年(1299)に建てられた本堂(国宝)です。

鐘楼(国重要文化財)。

多宝塔(県文化財)。元禄5年(1692)に徳川綱吉の母・桂昌院が再建しています。

御霊屋(県文化財)。足利大権現と称し、本殿に源氏の祖を祀り、拝殿には足利将軍15代の像が祀られています。
現在の御霊屋は江戸時代に11代将軍家斉の寄進によって再建されたものです。

一切経堂(国重要文化財)。応永14年(1407)に関東管領足利満兼によって再建されたものです。

北門(薬医門)

西門(県文化財)。反対側の東門共々、開基義兼の創建ですが、永享4年(1432)に公文所奉行による再修を受けています。

東門(県文化財)。

居館付近に建つ足利尊氏像。
当の尊氏は幼少の頃より鎌倉で育ち、本領である足利を訪れることは一度もなかったといいます。

足利学校の北東端から仁王門付近を見たところ。

足利氏館の南東に設けられた坂東の大学・足利学校。

渡良瀬川北岸の平地に築かれた城館です。城館として機能したのは義国・義康・義兼の3代の間だけで、それ以降は鑁阿寺となっています。日本100名城。