2016年7月アーカイブ

  • 読み:へいあんきゅう、たいらのみや
  • 別名:大内裏、平安城
  • 所在地:京都府京都市上京区・中京区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:天皇家
  • 文化財指定:国指定史跡(豊楽院跡)(平成2年2月22日、平成20年7月28日清暑堂跡及び北廊跡追加)
  • 訪問日:平成26年10月11日

平安宮は、延暦13年(794)に50代桓武天皇によってそれまでの都であった長岡京から遷都された平安京の北端に置かれた宮殿です。大きさは南北約1.4キロメートル、東西約1.2キロメートルで、周囲は大垣で囲まれ、南面中央の朱雀門を始め14の門が設けられていました。度重なる政変や失火により度々焼失し、安貞元年(1227)に平安宮のほとんどが焼失すると以後再建されることはなく、荒野となっていきました。その後は里内裏を皇居とし、南北朝合一の明徳3年(1392)からは京都御所が正式な皇居となっています。

明治28年(1895)の平安遷都1100年を記念した内国勧業博覧会では、大内裏の一部復元が計画されましたが、用地交渉に失敗。岡崎に8分の5の規模で復元され、現在の平安神宮となっています。

平安宮の復元図(中務省東面築地跡の案内板より)を加工したもの。
オレンジの線が現在の道路です。南東部は後の二条城になっています。

内国勧業博覧会で岡崎に8分の5の規模で一部復元された大内裏。
現在の平安神宮です。

内裏内郭回廊跡。
この辺りは内裏の南西隅でした。

内裏承香殿跡の碑。

中務省東面築地跡。
築地の跡が色の違うタイルで平面復元されています。

千本丸太町にあった朝堂院の跡。
国家的な儀式や政務の場でした。

大極殿跡の碑。
実際の太極殿は千本丸太町の交差点付近に建っていました。

朝堂院の西側にあった豊楽院の跡。
天皇の饗宴の場でした。

豊楽院北廊跡。

平安京の北端に設けられた宮殿です。81代安徳天皇の時に都は一時福原へ遷されましたがすぐに平安京へ戻されています。現在は市街地となり、建物は残っていません。

  • 読み:ありおかじょう
  • 別名:伊丹城
  • 所在地:兵庫県伊丹市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:伊丹氏、荒木氏、池田氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和54年12月28日)
  • 訪問日:平成26年10月11日

有岡城は、猪名川西岸の伊丹段丘の東端部に築かれた城です。鎌倉時代末期頃に伊丹氏が築いた伊丹城が始まりとされています。伊丹城は初め居館程度のものでしたが、戦国時代になると次第に拡張されていきました。天正2年(1574)11月、織田信長配下の荒木村重によって伊丹城は攻略され、伊丹氏に代わって荒木村重が城主となります。この時、信長の名によって有岡城と改称されています。村重によって有岡城は侍町と町屋を堀と土塁で囲まれ、南北約1.6キロメートル、東西約0.8キロメートルに及ぶ惣構の城に整備されました。

天正6年(1578)7月、羽柴秀吉の副将格として三木合戦に参戦していた村重は、突如戦線を離脱して有岡城へ帰城。信長配下の武将らが説得に訪れますが、村重は一旦は説得に応じるものの家臣らに引き止められ反逆の意思を明確にし、同年11月、信長が有岡城を攻撃します。有岡城は10ヶ月持ち堪えますが、村重は嫡男村次のいる尼崎城へ逃走。主を失った有岡城は落城しました。天正8年(1580)、信長配下の池田信輝の嫡男之助が有岡城に入城しますが、天正11年(1583)には美濃へ転封となり、伊丹は羽柴秀吉の直轄領となります。その後、有岡城は放置され廃城となりました。

本丸の模擬石垣。

本丸模擬虎口に立つ有岡城跡の碑。

復元された本丸の礎石建物跡。

復元された本丸の井戸跡。

本丸西側に残る土塁。

昭和51年(1576)の調査で発掘された石垣。

本丸西側に残る堀の跡。

有岡城の北端にあたる岸の砦跡。
現在は猪名野神社が鎮座しています。

猪名川西岸の伊丹段丘東端に築かれた城です。荒木村重によって惣構の城に整備されました。有岡城の戦いの前には単身説得に訪れた黒田官兵衛が捕らえられ幽閉されたことでも知られています。

  • 読み:がんがざわじょう
  • 別名:道陸神峠の要害
  • 所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:横谷氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成26年12月6日

雁ヶ沢城は、吾妻川の北岸、松上集落の裏手の尾根上に築かれた山城です。築城年代ははっきりせず、「加沢記」の岩櫃城攻略の記述にも登場しないことから、岩櫃城攻略後に真田氏配下の横谷氏によって築かれたものとも考えられます。城域内を通る道は道陸神峠を経て川原畑・川原湯・長野原方面へつながる間道であり、この間道を押さえるための城であったと考えれ、狼煙の中継地点であったとも考えられます。

南側から見た雁ヶ沢城。
右側の小高い山・諏訪山と左へ続く尾根上に築かれました。

雁ヶ沢城の麓に建つ十王堂。

雁ヶ沢城への入口。

登ってすぐのところに鎮座する諏訪神社。

急な山道を登って行くと、諏訪山の頂上にたどり着きます。
頂上には大山神社(手前)と猿田彦社(奥)が鎮座しています。

天然の堀切のような鞍部を経て、道は西へと伸びています。

峠へと向かう尾根上の道。
途中、やや平らな場所が2箇所あり、曲輪が設けられていたと考えられますが、まとまった兵は駐屯できそうにありません。

最高部。
ここが城跡かは不明ですが、ここからは西の川原湯方面、東の岩下方面がよく見えます。

吾妻川北岸の松上集落裏手の尾根上に築かれた山城です。道陸神峠を往来する間道の監視のために築かれたと考えられます。もともと険阻な地形のため、さほど削平されなかったと思われます。

  • 読み:たいぺいじょう、Táiběi chéng
  • 別名:台北府城
  • 所在地:中華民国台北市中正区(GoogleMapで位置を確認)
  • 主要城主:清朝
  • 文化財指定:中華民国一級古蹟(城門)
  • 訪問日:平成27年2月1日

台北城は、台湾北部を流れる淡水河東岸の平地に築かれた城郭です。1871年の日本の台湾出兵によって琉球への宗主権を失った清朝は、日本の台湾への進出を危惧。その前線として1879年に台北城の建設計画が出され、1882年に着工、1884年に完成しました。城郭の完成後、城内には文廟や武廟、聖王廟、城隍廟、天后宮、淡水庁、台北府などの建物が次々と建てられ、台北が台湾の政治・宗教の中心となっていきます。

日清戦争(1894-95)の結果、台湾が日本に割譲されると、台北には台湾総督府が置かれました。街区整理と縦貫道路建設のため、台湾総督府により北門、小南門、南門、東門の4つの門を残しほぼ城壁のすべてが撤去され、城壁跡は大通りとなり、現在に至っています。

北面の城壁が建っていた中高西路一段。
奥が西になります。

台北城の北西隅に建つ北門(承恩門)。
往時の姿を留める唯一の城門です。

西門(寶成門)跡付近に建つ模擬城壁。
台北捷運西門駅へのエレベータの入口になっています。

西門跡に立つ寶成門舊址の碑。
西門は1900年に撤去されています。

西面の城壁が建っていた中華路一段を西門跡付近から見たところ。
奥が北門方面です。

城域の南西端から見た中華路一段。

南面城壁跡の愛国西路と延平南路の交点に建つ南門(麗正門)。
第二次世界大戦後に現在の姿に変えられています。

。南面城壁跡の愛国西路と公園路の交点に建つ小南門(重熙門)。
こちらも第二次世界大戦後に現在の姿に変えられています。

城域の南東端から東面城壁の建っていた中山南路を見たところ。

中山南路から見る自由広場。

当面城壁跡の中山南路と信義路の交点に建つ東門(景福門)。
港町の基隆へと至る門であることから重要視されていました。
こちらも第二次世界大戦後に現在の姿に変えられています。

淡水河東岸の平地に築かれた城郭です。現在の中高西路一段、中華路一段、愛国西路、中山南路に囲まれた範囲が城郭でした。4つの門が残る以外、城壁はほぼすべて撤去されています。

  • 読み:たんすいこうもうじょう、Dànshuǐ hóng máo chéng
  • 別名:サン・ドミンゴ要塞(聖多明哥城)、アントニー要塞(安東尼堡)
  • 所在地:中華民国新北市淡水区(GoogleMapで位置を確認)
  • 主要城主:スペイン人勢力、オランダ人勢力、鄭氏、清朝
  • 文化財指定:中華民国一級古蹟
  • 訪問日:平成27年2月2日

淡水紅毛城は、台湾北部を流れる淡水河の河口北岸に築かれた要塞で、1628年に台湾北部に勢力を伸ばしたスペイン人によって築かれたサン・ドミンゴ要塞が始まりとされています。1642年、台湾南部に勢力を張っていたオランダ人が北部へ勢力を広げ、スペイン人勢力は台湾から完全に駆逐されました。その後、要塞は改修され、1646年にアントニー要塞として完成しました。現在見られる淡水紅毛城は、大部分がこの時に築かれたものです。当時、漢人はオランダ人を「紅毛」と呼んでいたことから、アントニー要塞は「紅毛城」とも呼ばれました。

1662年、明の軍人・鄭成功がオランダ人を台湾から駆逐すると、紅毛城は淡水防衛のために修理されました。鄭成功は台湾を拠点に大陸を支配する清への抵抗を試みますが、6月に死去。抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれました。1683年に鄭氏政権が清へ帰順すると、その後しばらく放棄されていましたが、淡水庁により修理され統治拠点として利用されることもありました。

1851年に北京条約によって淡水が開港されると、1867年に清朝とイギリス政府との間で紅毛城の永久租借協定が締結され、紅毛城はイギリス領事館となります。1895年に台湾が日本へ割譲されると、改めて日本政府との間に租借協定が結ばれています。第二次世界大戦中は日本に接収されましたが、戦後再びイギリス領事館となり、1972年に台湾とイギリスが断交するとイギリス領事が撤退。その後之管理はオーストラリア大使館が、豪台断交の後はアメリカ大使館が、米台断交後はアメリカ在台協会が行っています。1980年、紅毛城は台湾へ返還され、現在に至っています。

中正路と真理路の交差点から見る淡水紅毛城。
月曜日は休館日で門は固く閉ざされていました。

交差点から要塞の一部が見えます。

淡水河河口北岸の高台に築かれた要塞です。月曜日休館。

  • 読み:かながわだいば
  • 別名:-
  • 所在地:神奈川県横浜市神奈川区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:江戸幕府
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成27年3月15日

神奈川台場は、神奈川宿の南沖合に横浜港の付属施設として築かれた砲台場です。安政6年(1851)に幕府が伊予松山藩に構築を命じ、勝海舟が設計にあたりました。海に突き出した扇型の人工島には14門の大砲が設置され、陸地とは東西2本の取渡り道で結ばれていました。明治維新後も台場は礼砲用として使われましたが、明治32年(1899)に廃止され、大正10年頃から周囲が埋め立てられ、現在は石垣の一部が残るだけとなっています。

神奈川台場全体図(台場公園の案内図を加工)。
上が南になります。
沖合に築かれた人工島と陸地は2本の取渡り道で結ばれ、取渡り道の間の水域は船溜りとして利用されました。

台場公園の南に残る人工島北西部の石垣。

人工島北西面の石垣。

台場公園。
往時は船溜りになっていました。

星野町公園に残る人工島南面の石垣。

横浜港の付属施設として築かれた砲台場です。現在は周囲が埋め立てられ、台場公園付近と星野町公園に石垣の一部が残っています。

  • 読み:かなざわじょう
  • 別名:尾山城、尾上城、金城
  • 所在地:石川県金沢市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:佐久間氏、前田氏
  • 文化財指定:国指定史跡(平成20年6月17日)
  • 訪問日:平成27年7月19日

金沢城は、犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の先端部に築かれた平山城です。もともとは浄土真宗の寺院である尾山御坊があり加賀一向一揆の拠点でしたが、天正8年(1580)に織田信長配下の佐久間盛政によって攻め落とされ、金沢城が築かれました。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで盛政が羽柴秀吉に討たれると、秀吉配下の前田利家が金沢に入り、尾山城と改称します。天正15年(1587)には高山右近を呼んで大改修を行っています。この頃に名称を金沢城に戻したといわれています。文禄元年(1592)に利家の子の前田利長によって再び大改造が行われ、五重の天守が建てられました。天守は慶長7年(1602)に落雷によって焼失し、代わりに三階櫓が建てられました。延宝4年(1676)には、加賀藩4代藩主前田綱紀が、金沢城に付属する大名庭園・兼六園を築いています。明治以降は陸軍歩兵第7連隊、陸軍第9師団が置かれ、一部を残して建物は撤去され、第二次世界大戦後は金沢大学が置かれました。金沢大学は平成7年(1995)に移転し、以後は金沢城公園として整備されています。

金沢城全体図(城址公園の案内図を加工したもの)。
上が北になります。

本丸の南東に設けられた辰巳櫓の石垣と、その下に設けられた鯉喉櫓台。

鯉喉櫓台付近から見るいもり堀。
明治以降埋められていましたが、平成22年(2010)に復元されました。

城の東に設けられた百間堀。
左が金沢城、右が兼六園です。

百間堀の石垣には刻印が見られます。

百間堀から見上げる本丸丑寅櫓の石垣。

百間堀から見上げる石川門(現存)。
国の重要文化財に指定されています。

百間堀に面した設けられた門。

石川橋の下に立つ前田利家像。

城の北口にあたる大手門。

大手門から見た大手堀。
金沢城で唯一往時の姿を留める堀です。

大手門の枡形。

大手門を入ると新丸が設けられています。

大手門付近から菱櫓、河北門を見たところ。

平成22年(2010)に復元された河北門。

三の丸の東に設けられた石川門。

石川橋から本丸丑寅櫓方面を見たところ。

天守内部

三の丸。
奥には菱櫓、五十間長屋、橋爪門が建てられています。

河北門と五十間長屋。

橋爪門と橋爪門続櫓。
平成13年(2001)に復元されました。

石川門の内部。

菱櫓と五十間長屋。
平成13年(2001)に復元されました。

橋爪門付近から河北門を見たところ。

菱櫓と五十間長屋を二の丸側から見たところ。

二の丸と本丸下の曲輪にかかる極楽橋。
橋の向こうの階段の上に三十間長屋が見えます。

本丸下の曲輪に建つ三十間長屋(現存)。
国の重要文化財に指定されています。

本丸下の曲輪から本丸へと続く門。

本丸は三階櫓の焼失後に放置され森が広がっています。

本丸戌亥櫓跡。

本丸丑寅櫓付近から橋爪門、五十間長屋、菱櫓を見たところ。

鶴丸倉庫(現存)。
国の重要文化財に指定されています。

犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の先端部に築かれた平山城です。加賀藩前田氏の居城でした。日本100名城。

  • 読み:みなもとののりよりやかた
  • 別名:吉見御所
  • 所在地:埼玉県比企郡吉見町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:源範頼、吉見氏
  • 文化財指定:埼玉県指定旧跡(昭和37年10月1日)
  • 訪問日:平成27年8月14日

源範頼館は、荒川西岸の平地に築かれた方形館です。源頼朝の異母弟で蒲冠者とも呼ばれた源範頼は、武蔵国横見(のちに吉見に改称)に領地を預かり居館を構えたと伝えられています。頼朝の代官として弟・義経とともに平家を打倒し、その後も源氏一門として鎌倉幕府を支えますが、建久4年(1193)、頼朝に謀反の疑いをかけられ誅殺されました。子の範円・源昭は助命され、範円は吉見氏を称し、為頼、義春、義世に至る5代がこの館に居住したと伝えられています。また、戦国時代に松山城を居城としこの地に勢力を張った上田氏は、吉見氏の後継を称しています。現在建つ息障院は、明徳年間(1390~1393)に愛宕山から移ってきたとされています。

息障院山門。

南側の堀。

北側の堀。

息障院境内。

蒲冠者源範頼の居館と伝えられています。現在は息障院が建っています。