2017年1月アーカイブ

  • 読み:さくらじょう
  • 別名:鹿島城
  • 所在地:千葉県佐倉市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:千葉氏、土井氏、堀田氏
  • 文化財指定:佐倉市指定史跡(昭和37年3月28日)
  • 訪問日:平成27年8月15日

佐倉城は、鹿島川東岸の鹿島台と呼ばれる小高い山に築かれた平山城です。天文年間頃に本佐倉城の千葉親胤の大叔父にあたる鹿島幹胤によって築城が開始されたのが始まりとされています。しかし完成を待たず弘治3年(1557)に親胤が暗殺され工事は中断。千葉邦胤の時代になって再び工事が再開されますが、邦胤も天正13年(1585)に暗殺されてしまい、千葉氏の鹿島台の城が完成することはありませんでした。

江戸時代になり、慶長15年(1610)に徳川家康の命を受けた土井利勝が築城を再開し、ついに佐倉城が完成します。江戸時代初期は佐倉藩主の入れ替わりが激しく、土井氏以降、石川氏、松平(形原)氏、堀田氏、松平(大給)氏、大久保氏、戸田氏、稲葉氏、松平(大給)氏と目まぐるしく代わり、延享3年(1746)に堀田正亮が入部して以降は堀田氏が明治維新まで藩主を務めました。

明治6年(1873)になると陸軍の東京鎮台佐倉分管が置かれ、兵営設置のために城の建物は撤去されました。現在は佐倉城址公園として整備されています。

佐倉城全体図(城址公園の案内図を加工したもの)。
右下が北になります。
佐倉城は西から本丸、二の丸、三の丸が並ぶ連郭式の城でした。

馬出しの空堀。

馬出し内部の様子。

三の丸の北西の虎口にあたる椎木門跡。
奥が馬出しです。

三の丸の佐倉陸軍病院跡。
公園内には陸軍施設の跡も残っています。

三の丸と二の丸の間の堀。

二の丸に立つ米国駐日総領事タウンゼント・ハリスの像。ハリスと佐倉藩主の堀田正睦の直接交渉の結果、安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約が締結されました。

ハリス像の近くに立つ堀田正睦像。

昭和59年(1984)~60年に行われた調査で発見された佐倉上の礎石。
陸軍の営舎の基礎に転用されていました。

三の丸と二の丸の間に設けられた二の門の跡。

二の丸に残る土塁。

二の丸と本丸の間に設けられた台所門の跡。
奥が本丸です。

本丸。
左奥に天守台が見えます。

天守台。
三層の天守はこの土台に半分乗っかるように建てられました。

銅櫓台。
土井利勝が将軍より拝領し江戸城から移築したものでした。

銅櫓跡。

本丸を取り囲む土塁。

本丸と二の丸の間に設けられた一の門の跡。
奥が本丸です。

本丸と二の丸の間の堀。

三の丸と三の丸屋敷の間に設けられた三の門の跡。
二階造りの門が建っていました。

三の丸と三の丸屋敷の間の堀。
往時はもっと深かったようですが、陸軍施設の造営時に埋められたようです。

三の丸屋敷跡。

三の丸屋敷跡に建つ佐倉兵営跡の碑。

二の丸から南の出丸へ降りていく道。

南の出丸。
周囲を水濠が囲っていました。

現在も残る水濠。

西の出丸。

西の出丸に建つ薬医門。
城外に移築されていましたが、昭和58年(1983)に城内に戻されました。
佐倉城唯一の現存建物です。

三の丸の東に位置する姥が池。
家老の娘のお守りをしていていた乳母が誤って池に娘を落としてしまい、乳母も池に身を投げたと伝えられています。

姥が池の東に残るコンクリート製の12段の階段。
陸軍の高所飛び降り訓練に使用されていました。

鹿島川東岸の小山に築かれた平山城です。幕府の要職を務めることの多かった佐倉藩主の居城でした。現在は佐倉城址公園として整備されています。日本100名城。

  • 読み:もとさくらじょう
  • 別名:将門山城
  • 所在地:千葉県印旛郡酒々井町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:千葉氏、土井氏
  • 文化財指定:国指定史跡(平成10年9月11日)
  • 訪問日:平成27年8月15日

本佐倉城は、まだ干拓される前の印旛沼南岸の将門山に築かれた平山城です。文明年間(1469~1486)に千葉氏を再興した千葉輔胤によって築かれたのが始まりです。往時の本佐倉城は三方を湿地帯に囲まれ、城域は内郭と広大な敷地の外郭に別れていました。千葉氏はその後9代に渡り本佐倉城を本拠としますが、その勢力は次第に衰えていき、北条氏が下総へ進出するとその配下に呑まれていきました。天正18年(1590)の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、千葉氏は改易されて断絶。本佐倉城は、北条氏に代わって関東に入った徳川家康配下の内藤家長に接収されます。その後慶長15年(1610)に小笠原吉次、土井利勝が本佐倉城に入り、佐倉藩の藩庁が置かれましたが、元和元年(1615)に佐倉城への藩庁移転と一国一城令により本佐倉城は廃城となりました。

本佐倉城内郭全体図(現地の案内図を加工したもの)。

東山馬場(五郭)。

東山馬場側から見た東山虎口。
2つの門によって厳重に守られていました。

東西に細長く伸びる東山の上部の様子。

東山から北側を眺めた様子。
現在は水田が広がっていますが、往時は湿地帯の向こうに印旛沼が広がっていました。

北側から見た東山。
東西に細長く伸びる東山は郭自体が巨大な土塁であり、南の城山(主郭)を守っていたと考えられています。

四郭虎口。
堀底道を登ったところに門が建っていました。

四郭。
二度の発掘により、門や柵の跡、倉跡(三郭)・城山(主郭)への通路の跡が見つかり、登城経路が明らかとなりました。
本佐倉城は各郭に名前がつけられていますが、ここはまだ名前がつけられていません。

城山(左・主郭)と奥ノ山(右・二郭)を分断する大堀切。
堀切内の坂道を登りきったところには木戸が設けられていました。

大掘切から城山(主郭)へと至る通路。
城山の南側を蛇行しながら城山虎口へ向かいます。

城山虎口。
左に折れながら登る形の虎口です。

城山(主郭)。
主殿や会所の建物跡が発掘され、城主が客を迎えたり宴を開いたりした郭と考えられています。

城山から大堀切越しに奥ノ山を見たところ。
両郭ともここで土塁が切れているため、ここに木橋が架けられていたと考えられています。

城山は周囲を土塁に囲まれています。

城山の西に設けられた奥ノ山(二郭)。
千葉氏の守護神の妙見菩薩を祀る宮があった場所で、儀式の場であったと考えられています。

奥ノ山から大堀切越しに城山を見たところ。

奥ノ山に建てられた妙見宮の跡。

奥ノ山の西に設けられた倉跡(三郭)。
発掘調査によって広範囲に渡って掘立柱建物の跡が確認されたほか、炭化した米が出土しています。
また調理具なども出土し、倉庫群だけでな生活の場でもあったと考えられています。

四郭の北端に鎮座する諏訪神社。

四郭の北に設けられた東光寺ビョウとよばれる曲輪(六郭)。
名前の由来や曲輪の性質については未確定です。

東光寺ビョウの西側を通ってセッテイ(七郭)へ至る通路。

セッテイ虎口。
右に折れながら登る形の虎口です。

本佐倉城内ではセッテイ付近にだけ群生している金明竹。

セッテイ山。
接待郭もしくは人質郭と考えられています。
ほかの曲輪では見られない茶壺、碁石、火箸などが発掘されています。

セッテイ(右・七郭)と倉跡(左・三郭)を隔てる堀。
深さは10メートル、幅は広いところで9メートルあります。

東光寺ビョウ南奥虎口。

佐倉市と酒々井町にまたがる将門山に築かれた平山城です。ここで紹介した他に外郭があり、その城域は広大です。土塁や堀などの遺構がほぼ完全な姿で残っており、千葉県の城では唯一の国指定史跡となっています。

  • 読み:たけいじょう
  • 別名:片山古城
  • 所在地:長野県諏訪市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:諏訪氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成27年9月21日

武居城は、諏訪湖南岸の西沢川と女沢川に挟まれた尾根上に築かれた山城です。元徳2年(1330)に諏訪五郎時重によって築かれたのが始まりとされます。時重は鎌倉幕府執権の北条高時の婿となり、信濃一円に勢力を広げていましたが、正慶2年(1333)に鎌倉幕府が倒され北条氏が滅亡する際に、時重は高時とともに自害しました。その後の城主は不明となります。

およそ150年後の文明15年(1483)、諏訪氏大祝家の諏訪継満が惣領職も独占しようとして、諏訪氏惣領家の諏訪政満とその子・若宮丸を謀殺。社家衆の反発に遭い諏訪を追われ高遠へ逃れます。翌文明16年、継満は小笠原氏、高遠氏らの力を借りて諏訪へ侵入。武井城に立てこもりますが、大祝職を奪還することは叶わずに終わっています。天文年間には諏訪頼重配下の篠原与三郎が城代を務め、天文11年(1542)武田氏が諏訪へ進攻した後は大祝が城代を務めました。天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると諏訪頼忠が諏訪を回復。頼忠は茶臼山城を拠点としたため武井城は使われなくなり、廃城となりました。

居館跡とされる武居畑(片山)から見た武居城主要部。

居館跡とされる武居畑(片山)。
この辺り一帯は縄文時代から中世までの遺跡が重複して集中していることがわかっています。

武居畑(片山)から見た諏訪盆地。

武居畑(片山)の麓に鎮座する北斗神社。

登城道を兼ねた竪堀。

山城の東斜面に設けられた横堀。

主郭虎口。

主郭。

主郭から見た帯曲輪。
南に向かって帯曲輪が段々に設けられていますが、鹿よけのネットが張られていて立ち入りはできません。

諏訪大社上社本宮の南東に隣接する山の尾根上に築かれた城です。現在は武居城跡森林公園として整備されています。