佐倉城

  • 読み:さくらじょう
  • 別名:鹿島城
  • 所在地:千葉県佐倉市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:千葉氏、土井氏、堀田氏
  • 文化財指定:佐倉市指定史跡(昭和37年3月28日)
  • 訪問日:平成27年8月15日

佐倉城は、鹿島川東岸の鹿島台と呼ばれる小高い山に築かれた平山城です。天文年間頃に本佐倉城の千葉親胤の大叔父にあたる鹿島幹胤によって築城が開始されたのが始まりとされています。しかし完成を待たず弘治3年(1557)に親胤が暗殺され工事は中断。千葉邦胤の時代になって再び工事が再開されますが、邦胤も天正13年(1585)に暗殺されてしまい、千葉氏の鹿島台の城が完成することはありませんでした。

江戸時代になり、慶長15年(1610)に徳川家康の命を受けた土井利勝が築城を再開し、ついに佐倉城が完成します。江戸時代初期は佐倉藩主の入れ替わりが激しく、土井氏以降、石川氏、松平(形原)氏、堀田氏、松平(大給)氏、大久保氏、戸田氏、稲葉氏、松平(大給)氏と目まぐるしく代わり、延享3年(1746)に堀田正亮が入部して以降は堀田氏が明治維新まで藩主を務めました。

明治6年(1873)になると陸軍の東京鎮台佐倉分管が置かれ、兵営設置のために城の建物は撤去されました。現在は佐倉城址公園として整備されています。

佐倉城全体図(城址公園の案内図を加工したもの)。
右下が北になります。
佐倉城は西から本丸、二の丸、三の丸が並ぶ連郭式の城でした。

馬出しの空堀。

馬出し内部の様子。

三の丸の北西の虎口にあたる椎木門跡。
奥が馬出しです。

三の丸の佐倉陸軍病院跡。
公園内には陸軍施設の跡も残っています。

三の丸と二の丸の間の堀。

二の丸に立つ米国駐日総領事タウンゼント・ハリスの像。ハリスと佐倉藩主の堀田正睦の直接交渉の結果、安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約が締結されました。

ハリス像の近くに立つ堀田正睦像。

昭和59年(1984)~60年に行われた調査で発見された佐倉上の礎石。
陸軍の営舎の基礎に転用されていました。

三の丸と二の丸の間に設けられた二の門の跡。

二の丸に残る土塁。

二の丸と本丸の間に設けられた台所門の跡。
奥が本丸です。

本丸。
左奥に天守台が見えます。

天守台。
三層の天守はこの土台に半分乗っかるように建てられました。

銅櫓台。
土井利勝が将軍より拝領し江戸城から移築したものでした。

銅櫓跡。

本丸を取り囲む土塁。

本丸と二の丸の間に設けられた一の門の跡。
奥が本丸です。

本丸と二の丸の間の堀。

三の丸と三の丸屋敷の間に設けられた三の門の跡。
二階造りの門が建っていました。

三の丸と三の丸屋敷の間の堀。
往時はもっと深かったようですが、陸軍施設の造営時に埋められたようです。

三の丸屋敷跡。

三の丸屋敷跡に建つ佐倉兵営跡の碑。

二の丸から南の出丸へ降りていく道。

南の出丸。
周囲を水濠が囲っていました。

現在も残る水濠。

西の出丸。

西の出丸に建つ薬医門。
城外に移築されていましたが、昭和58年(1983)に城内に戻されました。
佐倉城唯一の現存建物です。

三の丸の東に位置する姥が池。
家老の娘のお守りをしていていた乳母が誤って池に娘を落としてしまい、乳母も池に身を投げたと伝えられています。

姥が池の東に残るコンクリート製の12段の階段。
陸軍の高所飛び降り訓練に使用されていました。

鹿島川東岸の小山に築かれた平山城です。幕府の要職を務めることの多かった佐倉藩主の居城でした。現在は佐倉城址公園として整備されています。日本100名城。