本佐倉城

  • 読み:もとさくらじょう
  • 別名:将門山城
  • 所在地:千葉県印旛郡酒々井町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:千葉氏、土井氏
  • 文化財指定:国指定史跡(平成10年9月11日)
  • 訪問日:平成27年8月15日

本佐倉城は、まだ干拓される前の印旛沼南岸の将門山に築かれた平山城です。文明年間(1469~1486)に千葉氏を再興した千葉輔胤によって築かれたのが始まりです。往時の本佐倉城は三方を湿地帯に囲まれ、城域は内郭と広大な敷地の外郭に別れていました。千葉氏はその後9代に渡り本佐倉城を本拠としますが、その勢力は次第に衰えていき、北条氏が下総へ進出するとその配下に呑まれていきました。天正18年(1590)の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、千葉氏は改易されて断絶。本佐倉城は、北条氏に代わって関東に入った徳川家康配下の内藤家長に接収されます。その後慶長15年(1610)に小笠原吉次、土井利勝が本佐倉城に入り、佐倉藩の藩庁が置かれましたが、元和元年(1615)に佐倉城への藩庁移転と一国一城令により本佐倉城は廃城となりました。

本佐倉城内郭全体図(現地の案内図を加工したもの)。

東山馬場(五郭)。

東山馬場側から見た東山虎口。
2つの門によって厳重に守られていました。

東西に細長く伸びる東山の上部の様子。

東山から北側を眺めた様子。
現在は水田が広がっていますが、往時は湿地帯の向こうに印旛沼が広がっていました。

北側から見た東山。
東西に細長く伸びる東山は郭自体が巨大な土塁であり、南の城山(主郭)を守っていたと考えられています。

四郭虎口。
堀底道を登ったところに門が建っていました。

四郭。
二度の発掘により、門や柵の跡、倉跡(三郭)・城山(主郭)への通路の跡が見つかり、登城経路が明らかとなりました。
本佐倉城は各郭に名前がつけられていますが、ここはまだ名前がつけられていません。

城山(左・主郭)と奥ノ山(右・二郭)を分断する大堀切。
堀切内の坂道を登りきったところには木戸が設けられていました。

大掘切から城山(主郭)へと至る通路。
城山の南側を蛇行しながら城山虎口へ向かいます。

城山虎口。
左に折れながら登る形の虎口です。

城山(主郭)。
主殿や会所の建物跡が発掘され、城主が客を迎えたり宴を開いたりした郭と考えられています。

城山から大堀切越しに奥ノ山を見たところ。
両郭ともここで土塁が切れているため、ここに木橋が架けられていたと考えられています。

城山は周囲を土塁に囲まれています。

城山の西に設けられた奥ノ山(二郭)。
千葉氏の守護神の妙見菩薩を祀る宮があった場所で、儀式の場であったと考えられています。

奥ノ山から大堀切越しに城山を見たところ。

奥ノ山に建てられた妙見宮の跡。

奥ノ山の西に設けられた倉跡(三郭)。
発掘調査によって広範囲に渡って掘立柱建物の跡が確認されたほか、炭化した米が出土しています。
また調理具なども出土し、倉庫群だけでな生活の場でもあったと考えられています。

四郭の北端に鎮座する諏訪神社。

四郭の北に設けられた東光寺ビョウとよばれる曲輪(六郭)。
名前の由来や曲輪の性質については未確定です。

東光寺ビョウの西側を通ってセッテイ(七郭)へ至る通路。

セッテイ虎口。
右に折れながら登る形の虎口です。

本佐倉城内ではセッテイ付近にだけ群生している金明竹。

セッテイ山。
接待郭もしくは人質郭と考えられています。
ほかの曲輪では見られない茶壺、碁石、火箸などが発掘されています。

セッテイ(右・七郭)と倉跡(左・三郭)を隔てる堀。
深さは10メートル、幅は広いところで9メートルあります。

東光寺ビョウ南奥虎口。

佐倉市と酒々井町にまたがる将門山に築かれた平山城です。ここで紹介した他に外郭があり、その城域は広大です。土塁や堀などの遺構がほぼ完全な姿で残っており、千葉県の城では唯一の国指定史跡となっています。