蔵王堂城

  • 読み:ざおうどうじょう
  • 別名:-
  • 所在地:新潟県長岡市(GoogleMapで位置を確認)
  • 主要城主:中条氏、長尾氏→上杉氏、堀氏、山田氏
  • 文化財指定:長岡市指定史跡(昭和36年3月24日)

蔵王堂城は、信濃川東岸の平地に築かれた城で、南北朝時代には北朝方の中条氏が本陣を構え実質的な城として利用したのが始まりとされる。後に長尾景晴が蔵王堂に入るも4代後の孝景の代には栖吉城に移り、長尾為景(上杉謙信の叔父)が本格的な築城を開始した。その後上杉氏が会津へ移封となるまでその支配下にあった。

慶長3年(1598)に上杉氏が会津へ移封となると、越後春日山城には代わって堀秀治が入り、蔵王堂城にはその弟の堀親良が入って蔵王堂藩初代藩主となった。その後を継いだ養子の堀鶴千代は9歳で夭逝。蔵王堂城は後見を務めていた坂戸藩の堀直寄の管理となった。慶長15年(1610)、越後福嶋騒動により堀氏は改易となり、堀直寄は飯山藩へ移封となった。越後には徳川家康の六男の松平忠輝が入り、蔵王堂城にはその家臣の山田勝重が入った。このときの蔵王堂城は独立した藩ではなく、福島藩の所領扱いであった。その忠輝も大阪夏の陣の不手際により改易され、蔵王堂城には堀直寄が再び入ることとなり、蔵王堂藩が復活した。直寄は信濃川沿いで水害に遭いやすい蔵王堂城に代わる居城として新たに長岡城の築城を開始し、元和2年(1616)に長岡城の完成とともに移転したため蔵王堂城は廃城となった。

現在は本丸に安禅寺が、二の丸に金峯神社が建ち、三の丸は宅地化している。本丸の堀と土塁の一部が残っている。

蔵王堂城縄張図(右が北。現地案内板より)。
信濃川沿いにあり、本丸、二の丸、三の丸を設けていた。

本丸を取り囲む堀と土塁。
堀は南側の一部と東側が残っている。

本丸内部から見た土塁。
一部に石積が用いられている。

本丸に建つ堀直寄像。

本丸に建つ安禅寺の毘沙門堂と観音堂。

毘沙門堂・観音堂の裏手にも土塁が残っている。
こちらは本丸の北辺に当たる。

二の丸に鎮座する金峯神社。
二の丸、三の丸には目立った遺構は見られない。

訪城:令和6年4月21日

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