大胡城
- 読み:おおごじょう
- 別名:-
- 所在地:群馬県前橋市(GoogleMapで位置を確認)
- 主要城主:大胡氏、横瀬氏、北条(きたじょう)氏、牧野氏、酒井氏
- 文化財指定:群馬県指定史跡(昭和42年2月24日)
大胡城は赤城山南麓を流れる荒砥川西岸の台地上に築かれた城で、その築城年代ははっきりしていないが、大胡氏によって築かれたと考えられている。大胡氏は関東管領山内上杉氏に従っていたが、やがて太田の横瀬氏が勢力を拡大すると次第に圧迫され、天文10年(1541)には当地を去り、武蔵へと移っていった。
その後城は横瀬氏のものとなり、横瀬氏は北条氏につくが、越後の上杉謙信によって攻め落とされ、北条(きたじょう)高広が大胡城に入る。北条(きたじょう)氏は一時上杉氏を裏切り北条氏につくが、越相同盟により再び上杉氏の配下となり、天正6年(1578)に謙信が急死し御館の乱がおきると、景虎方につく。この戦いで北条高広は戦死。上杉氏の勢力が去った当地は武田氏の勢力下に入ったが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、織田信長配下の滝川一益がこの地に入る。しかし同年6月に本能寺の変が起きると、滝川一益はこの地を去り、北条氏の勢力下に入った。天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡すると、関東には徳川家康が封じられ、大胡城には家康は以下の牧野康成が2万石で入った。
元和2年(1616)、牧野氏が越後長嶺へ転封となると、大胡城は酒井氏前橋藩のものとなり、城代が置かれたが、寛永2年(1749)に酒井氏が姫路へ転封となると大胡城は廃城となった。市街化が進み、大部分の遺構は破壊されてしまったが、本丸と二の丸は遺構がよく見られる。
南東端から見た二の丸の様子。
手前に枡形の虎口が設けられている。
二の丸の南側に少しだけ切れ込んだ堀切。
本丸の西側に設けられた堀切。
本丸の南の堀。
上の写真の堀とつながっている。
二の丸から南を見たところ。
三の丸や南郭がありましたが、現在は市街化している。
本丸西側の虎口と土橋。
往時の虎口はこれほど広くなく、公園整備のために改変されている。
本丸。
北、西、南は土塁によって囲まれている。
本丸のほぼ中央に詰まれた石積み。
この石積みで本丸は二段に分けられている。
本丸東端から見た景色。
写真中央に荒砥川が流れ、その手前が根小屋になっていた。
本丸の北側には、沢を挟んで北郭が設けられている。
北郭は現在幼稚園になっている。
さらに北には近戸曲輪が設けられている。
現在は大胡神社が建っている。
大胡神社裏の堀切。
ここが大胡城の最北端であったと考えられている。
訪城:平成21年12月23日
群馬 上野