金山城

  • 読み:かなやまじょう
  • 別名:太田金山城、新田金山城
  • 所在地:群馬県太田市(GoogleMapで位置を確認)
  • 主要城主:岩松氏、横瀬・由良氏、北条氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和9年12月28日指定)
  • 日本100名城(17番)

金山城は、大田市街の北にそびえる金山の尾根部に築かれた山城で、文明元年(1469)に岩松家純によって築かれた。

明応4年(1495)、岩松氏配下の横瀬成繁・国繁繁親子が、岩松氏内部の関東管領上杉氏と古河公方への帰趨をめぐる内乱に乗じて実権を奪取。享禄元年(1528)、岩松昌純が横瀬氏打倒をもくろむものの事前に察知され横瀬氏によって殺害され、太田金山城は横瀬氏の支配下に移った。

その後、横瀬氏は関東管領上杉氏に従属し、北条氏と対立するが、天文21年(1552)に上杉憲政が平井城を脱出し、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の元へ逃れると、一時的に北条氏に従属。永禄3年(1560)に長尾景虎が関東へ進出するとこれに従った。永禄8年(1565)頃に横瀬成繁は「由良」に改姓。翌永禄9年、再び北条氏に従属し、天正14年(1586)、北条氏は国繁を桐生城へ移し、太田金山城は北条氏の番城となった。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に攻撃を受け落城。その後廃城になったと考えられている。

本城地区

金山城鳥瞰図(現地案内板より)。
金山の頂上部に設けられた実城(本丸)を中心に周囲の尾根を削平して曲輪を配置している。

東麓から見た金山城。

北東の入口に建つ神明宮

神明宮から頂上部へと続く山道。

神明宮から10分ほど登るとこのような堀切が現れる。

実城(本丸)。「天守曲輪」とも呼ばれるが、天守の存在は疑わしい。
由良氏がその先祖としている新田義貞を祀る新田神社が鎮座している。

実城から東麓を見たところ

実城の北に設けられた馬場曲輪。
馬場とはいうものの実際は厩が設けられていた。

実城(右)と二の丸(左)を隔てる堀切。
この堀の奥へ進むと出城である北城(坂中城)がある。

実城の西に設けられた二の丸。
現在は竹藪になっている。

実城の南に設けられた御台所曲輪。

御台所曲輪の西、二の丸の南に設けられた日ノ池。
ほぼ円形で発掘調査により2箇所の石組井戸と石階段の存在が確認されている。
水源としてだけでなく、戦勝や雨乞いなどを祈願した場でもあったと考えられている。

南曲輪。
復元された建物のほか、金山城の立体模型が設置されている。

南曲輪から北側を見たところ。
石垣で固められた腰曲輪が三の丸に向かって段々と連なっている。

本城西端の復元された本城虎口。
土塁、通路、排水路を石垣でしっかりと固めている。

本城虎口の脇に設けられた月ノ池。
かつては下一段のみの池であったが、表流水と浸透水を効率よく貯め、且つ溢れさせないために二段になったことが発掘調査結果からわかっている。

本城地区(右)と馬場地区(左)を隔てる大堀切を月ノ池から見たところ。

馬場地区

馬場地区の東端に設けられた馬場曲輪。
写真中央の石垣部分には排水溝が設けられている。

馬場地区の西端に当たる物見台。

物見台から馬場通路を見下ろしたところ。
通路は馬場曲輪へと通じている。

馬場下通路の東側。
建物の跡が杭で平面復元されている。
写真奥には馬場曲輪の建物が見えている。
また、奥の階段は馬場通路と連絡している。

馬場下通路の西側。
木橋が復元されている。
奥には食い違い虎口が見えている。

物見台の下に設けられた大堀切。
大量の岩を掘削して造られている。

馬場地区の西端に設けられた食い違い虎口と土橋。
土橋も石垣で固められている。

西城地区

馬場地区から西城地区へ向かう途中には、このような堀切がいくつか見られる。

西城。
由良氏の時代には、由良氏の一族の泉伊予守がここに居住していた。

西城地区の西端に設けられた見附出丸。
北と南に土塁を互い違いに設け、直線的に進入できないようになっている。

訪城:平成21年7月11日

群馬 上野