大坂城

  • 読み:おおさかじょう
  • 別名:金城、錦城
  • 所在地:大阪府大阪市中央区(GoogleMapで位置を確認)
  • 主要城主:羽柴氏(豊臣氏)、徳川氏
  • 文化財指定:国指定特別史跡(昭和30年6月24日)
  • 日本100名城(54番)

大坂城は、淀川南岸の上町台地の北端部に築かれた平山城で、天正11年(1583)、元々あった石山本願寺の跡地に羽柴秀吉が築城を開始したのが始まりである。本丸の造営には1年半かかり、慶長4年(1599)に秀吉が死ぬまでに5層の天守、二の丸、三の丸、惣構が建造された。築城者である秀吉自身は京都に聚楽第、伏見城を築き、主にそちらに居城した。秀吉の死後、まだ幼い嫡男秀頼が大坂城に入り、実質的に政権を掌握していた徳川家康も西の丸に入り政務を執る。家康は西の丸に4層の天守を築き、暫くの間大坂城には天守が2つある状態となった。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで家康の東軍が勝利し江戸に幕府が開かれた後も、秀頼は大坂城に在城し、摂津、河内、和泉の3カ国を領有しつづけた。家康と秀頼は次第に対立していき、慶長19年(1614)11月、家康は20万の大軍を率いて大坂城を包囲、攻撃(大坂冬の陣)。大坂城は1ヶ月以上持ちこたえ、同年12月に和議を結ぶこととなる。この和議の条件として大坂城は二の丸と三の丸及び真田丸を破却し、外堀を埋めることとなった。翌慶長20年、家康は再び大坂城を攻撃(大坂夏の陣)。5月7日、本丸と内堀だけとなっていた大坂城はついに落城し、秀頼と淀殿(茶々)は自害、豊臣氏は滅亡した。

その後、大坂城は一旦松平忠明に与えられ、元和5年(1619)から幕府直轄領となり、2代将軍徳川秀忠のもとで新たな大坂城の築城が始まり、寛永6年(1629)に完成。新たな大坂城には白亜の天守が建てられたが、寛文5年(1665)に落雷によって焼失し、以後、天守は建てられなかった。幕末の慶応3年(1867)12月、王政復古の大号令の後、二条城を追われた15代将軍慶喜は大坂城に居城。翌慶応4年1月3日に戊辰戦争が勃発し、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が新政府軍に敗れると、慶喜は船で江戸へ退却。大坂城は新政府軍に明け渡され、この前後の混乱で御殿や櫓などほとんどの建物が消失している。

戊辰戦争後は大坂城は陸軍用地となり、大阪鎮台が置かれた。昭和6年(1931)徳川期の天守台の上に豊臣の黒い天守と徳川の白い天守を折衷した姿の復興天守が鉄筋コンクリートで建造された。第2次世界大戦後、陸軍用地は米軍に接収され、昭和23年(1948)に接収が解除されると大阪城公園として整備が進められ、現在に至っている。

大坂城主要部縄張図(地理院地図を加工)。
現在見られる大阪城の遺構は徳川の時代になってからのもので、この下には豊臣期の遺構が埋まっている。
淀川南岸の上町台地の北端に本丸を築き、その周囲を二の丸、三の丸が取り囲む輪郭式の縄張りとなっている。
二の丸の入口は青屋門、玉造口、大手門、京橋口の4箇所に限定された。

惣構を含む大坂城縄張図(地理院地図を加工)。
北は淀川水系を天然の堀とし、東は猫間川、西は東横堀川に挟まれている。南は現在の松屋町から玉造にかけて空堀が設けられた。
南側の防御を補うため、玉造の空堀の外側には、大坂冬の陣の直前に真田信繁によって真田丸が築かれた。

大手前交差点付近から見た西外堀。

大手前交差点付近から見た乾櫓(現存・国指定重要文化財)。

大手前交差点から大手門方向を見たところ。

大手門前から見た西外堀。

大手門前から見た千貫櫓(現存・国指定重要文化財)。

南側から見た大手門(現存・国指定重要文化財)。

馬場町交差点付近からみた南外堀。
石垣の水面からの高さは20メートルを超える。
写真に移っている櫓は六番櫓(現存・国指定重要文化財)。

大手門。

大手門の枡形。

表面積47.98平方メートルの大手見付石。
大坂城内で4番目に大きな石。

本丸の内堀(空堀)を南西隅から東に向かって見たところ。

本丸の内堀(空堀)を南西隅から北に向かって見たところ。

二の丸に展示されている石垣の石。

二の丸の西と南を仕切る南仕切門。
石垣の上には太鼓櫓が設けられていた。

二の丸の六番櫓付近には石山本願寺推定地の説明板が立っている。

二の丸に鎮座する豊国神社と豊臣秀吉像。
豊国神社には秀吉が祀られています。

本丸への南からの入り口に当たる桜門(明治20年再建)。

桜門前から東側の内堀(空堀)を見たところ。

桜門枡形の蛸石。
表面積60平方メートル。

本丸内部に建つ旧大阪市立博物館。
元は陸軍第四師団司令部庁舎。

本丸に建つ大阪城復興天守。
本来ここには徳川期の白亜の天守が建っていましたが、昭和6年(1931)に豊臣・徳川折衷型の復興天守が建てられた。
歴代天守の中で最も長く建ち続け、登録有形文化財になっている。

本丸から内堀を隔てて西の丸を見たところ。

山里口出枡形の内濠に向かって石垣が門状に開いた箇所。
本丸西の腰曲輪へつながっている。

山里口出枡形。

山里口出枡形から見た復興天守のライトアップ。

本丸の北に設けられた山里曲輪には刻印石広場が設けられている。

刻印が刻まれた石材が置かれている。

山里曲輪の北に架かる極楽橋から復興天守を見たところ。

二の丸の北側部分。

二の丸の北側部分から北外堀を見たところ。

二の丸の東側部分に広がる梅林。

二の丸から見た青屋門(昭和45年再建)。

青屋門から東外堀を見たところ。

三の丸から見た京橋口。

青屋門付近から見た東外堀。

南端から見た東外堀。

音楽堂付近に残る土塁。

南東隅から北側を見たところの南外堀。
二の丸の石垣の上に建つのは一番櫓(現存・国指定重要文化財)。
大坂城二の丸には一番から七番までの櫓が建てられたが、現存するのは一番櫓と六番櫓だけである。

南東隅から西側を見たところの南外堀。

玉造口前の土橋。

玉造口。

玉造口から見た復興天守。

南東隅から北側を見たところの内堀(空堀)。

訪城:平成25年10月12日、平成28年7月16日、令和4年10月8日

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