境関所
- 読み:さかいせきしょ
- 別名:-
- 所在地:富山県下新川郡朝日町(GoogleMapで位置を確認)
- 主要城主:前田氏
- 文化財指定:富山県指定史跡(昭和40年10月1日)
境関所は、越中国と越後国の境を流れる境川の越中国側に設置された関所であり、中世頃にはすでに関所が設けられていた。江戸時代になり幕藩体制が整うと、加賀藩は慶長19年(1614)に国境の警備と北国街道の通行管理を目的として奉行を置き、口留番所を関所とした。境関所には陸上を警備する岡番所と会場を警備する浜番所が設置された。南の山には見張所である「お亭(おちん)」を設け、陸上と海上の交通に目を光らせていた。
明治になり関所が廃止されると跡地は境小学校などに利用された。小学校閉校後は「関の館」が建てられ、境関所の歴史を伝える施設になっている。
境関所略図(現地案内板より)。
略図は主に岡番所について書かれている。
復元された大門。
上の略図のとおり本来はここより東へ80メートルほどのところに建っていた。
関所敷地。
上の略図でいうと御馬稽古場にあたる。
境関阯の石碑。
絵図を元に復元された関所庭園内の池。
往時は東西16間、南北6間の大きさだったが、縮小されて復元されている。
長谷川地蔵。
二代目奉行の長谷川宗兵衛吉久は国法を破り越後の情報収集のため娘を市振へ嫁がせた。3代藩主前田利常はこれを了解していたが、4代光高はこれを了承せず、宗兵衛と長男の宗左衛門、次男の伊衛門に切腹を命じた。さらに寺に預けていた5歳の三男宗吉も見つかって捉えられ斬首となった。このことを哀れに思った村人により供養のために地蔵が建てられたと伝えられている。
訪城:令和2年8月8日
富山 越中