新庄城

  • 読み:しんじょうじょう
  • 別名:沼田城、鵜沼城、新荘城
  • 所在地:山形県新庄市(GoogleMapで位置を確認)
  • 主要城主:戸沢氏
  • 文化財指定:新庄市指定史跡(昭和38年8月26日)

新庄城は、指首野川東岸の平地に築かれた平城で、寛永2年(1625)に新庄藩初代藩主の戸沢政盛によって築かれた。築城当初は本丸中央に3層の天守が建っていたが、寛永13年(1636)に火災で焼失して以降は再建されることはなかった。慶応4年(1868)の戊辰戦争では当初奥羽越列藩同盟に属したが、久保田藩とともに新政府軍に寝返る。このため庄内藩の攻撃を受け、7月14日に新庄城は落城。その後廃城となった。明治になってからは城跡は新庄学校、勧業試験場、招魂社、郡会議事堂として利用された。現在は本丸が最上公園となり、戸澤神社、新庄天満宮が鎮座。二の丸はほとんどが市街化している。

新庄城絵図(現地案内板より)。右上が北。
本丸の周囲を二の丸が囲む輪郭式の城だった。
この絵図は尾形芦光(1858~1946)が自身の幼少時の記憶と古老の証言を元に描いたもので、本丸中央部にはすでに焼失していた天守の姿はない。

本丸の東の入口の表御門跡。

表御門から北東側の堀を見たところ。

表御門から南西側の堀を見たところ。

表御門の枡形内部。
この部分には石垣が用いられている。

本丸の土塁。
奥の角は本丸の南隅にあたり、土塁の上には武器櫓が建っていた。

本丸に鎮座する戸澤神社。
新庄藩の歴代藩主を祀る。

新庄藩初代藩主戸沢政盛の像。

本丸西隅に鎮座する天満神社。

二の丸から本丸の南部を見たところ。
現在の進入路は往時の虎口ではなく、写真左側の入口が往時の虎口だったようである。

南側から見る本丸。

本丸南の虎口から南東側の堀を見たところ。
左の土塁上には武器櫓が建っていた。

本丸南の虎口から北西側の堀を見たところ。

二の丸の南側。

本丸北西の堀。
廃城後に埋められているが完全には埋めきらずに周囲よりわずかに低くなっている。

本丸北東の虎口の裏御門。

裏御門から北西側の堀を見たところ。

裏御門から南東側の堀を見たところ。

裏御門の内側に建つ藤嵐閣。
京都二条城の流扇閣を模したもの。

訪城:令和2年11月20日

山形 羽前