霞ヶ城

  • 読み:かすみがじょう
  • 別名:手塚城
  • 所在地:長野県諏訪郡下諏訪町(GoogleMapで位置を確認)
  • 主要城主:金刺氏
  • 文化財指定:-

霞ヶ城は、諏訪湖北岸の諏訪大社下社秋宮に隣接して築かれた城で、築城時期ははっきりしていないが、代々の下社大祝を務めた金刺氏の居城であった。南北朝時代、金刺氏は上社の諏訪氏とともに南朝方についたが、文和4年(1355)に金刺氏は北朝方につき、諏訪氏との対立が始まった。文安6(1449)には上社と下社が戦火を交えるようになり、信濃守護小笠原氏が金刺氏を支援したことから、諏訪氏は小笠原氏とも対立するようになった。その後、諏訪氏は勢力を拡大し金刺氏を圧迫するようになる。文明15年(1483)、諏訪大祝家の諏訪継満が諏訪惣領家の諏訪政満親子らを謀殺する事件(上社の内訌)に乗じ、金刺興春は上社勢を攻撃したが、反撃を受けて興春は戦死。下社とその周辺は焼き払われてしまった。永正15年(1518)、諏訪頼満は金刺昌春を攻め、昌春は甲斐の武田信虎に援護を要請。武田氏は金刺氏を笹尾塁に立てこもらせ諏訪氏と戦わせたが、諏訪氏の進攻により笹尾塁は放棄。これにより金刺氏は没落していくこととなった。以後、下社には大祝は置かれず、金刺氏支族の今井氏が武石祝として祭祀を行っている。遺構はほとんど見られず、周囲の地形に城の名残が見られる。平成29年3月までホテル山王閣が建っていたが、現在は取り壊され駐車場になっている。

金刺氏が大祝を務めた諏訪大社下社。

下社秋宮八幡社の城塁。

秋宮駐車場(右)とホテル山王閣跡駐車場(左)の間の堀。

主郭があったとされるホテル山王閣。
主郭のみの単郭であったと考えられる。
山王閣は現在取り壊され駐車場になっている。

ホテル山王閣跡駐車場に建つ金刺盛澄の像。
源頼朝に鎌倉へ召喚されたものの遅刻し、頼朝の怒りを買い処刑されそうになっしたが、梶原景時の計らいにより流鏑馬の腕前を披露することで頼朝に許され、諏訪に帰ることができたといわれている。

訪城:平成21年11月28日・平成22年1月26日・平成24年1月9日・平成24年10月20日

長野 信濃