龍岡城
- 読み:たつおかじょう
- 別名:龍岡五稜郭
- 所在地:長野県佐久市(GoogleMapで位置を確認)
- 主要城主:松平氏(大給)
- 文化財指定:国指定史跡(昭和9年5月1日)
- 続日本100名城(129番)
龍岡城は、千曲川に注ぐ雨川の北岸の平地に築かれた稜堡式の城郭で、幕末に松平乗謨によって築かれた。大給松平家は三河に4,000石、信濃に12000石の領地を持ち、三河を本拠としていたが、文久2年(1862)に参勤交代制度の緩和により家臣の在国期間が長くなったことで三河の本領が手狭になったため、翌文久3年(1863)に藩主松平乗謨(のりかた)は信州佐久への本領移転と新陣屋五稜郭の建設を願い出た。翌元治元年(1864)3月から着工が始まり、3年後の慶応3年(1867)に竣工。新城は地字名を取って龍岡城と名づけられた。明治4年(1871)に廃藩置県を迎えて龍岡藩(田野口藩)は廃藩となり、翌明治5年(1872)に龍岡城は取り壊された。跡地には明治8年(1875)に田野口村の尚友学校が移転し、以後令和5年(2023)に田口小学校が閉校するまで学校の敷地として利用された。
龍岡城概要図(地理院地図より)。
日本に二つしかない五稜郭であるが、経済的理由と時間的制約により堀は東半分にだけ設けられた。
北方には枡形が設けられた。
龍岡城縄張図(現地案内板より)。左下が北。
郭内には御殿が設けられた。
砲台は西側の稜堡の一箇所にしか設けられなかった。
北の田口城から見た龍岡城。
星型であることがわかる。
北東の凹部に設けられた大手門。
大手門の右手にある大給恒(おぎゅうゆずる)の胸像。
龍岡城を築いた最後の藩主松平乗謨は、明治2年(1869)に大給恒と改名している。日本赤十字社の前身である博愛社の創設と育成に貢献し、明治17年(1884)に子爵、明治40年(1907)には伯爵に叙せられた。
大手門の東側の堀。
このあたりの堀の幅は最も広く、約9.1メートル。
石垣の高さは堀の底から3.64メートル。
最上部には石垣をよじ登ろうとする敵兵の侵入を防ぐ武者返しが設けられている。
北の稜堡の堀外から大手門方向を見たところ。
土塁の内側に見える建物は田口招魂社。
北の稜堡の堀外から黒門方向を見たところ。
北西の凹部に設けられた黒門。
西の稜堡から黒門方向を見たところ。
黒門から西側は資金不足のため堀が設けられなかった。
西の稜堡付近の郭内にある御台所。
元は東の通用門の近くにありましたが、昭和4年(1929)に現在の位置に移された。
西の稜堡に設けられた砲台。
砲台を下から見たところ。
このあたりの石垣は配列を菱型にした亀甲積み。
砲台から南方向を見たところ。
南の稜堡から砲台方向を見たところ。
南の稜堡はなぜか角が丸くなっている。
南の稜堡から穴門方向を見たところ。
南の稜堡の外側には射撃場があったと伝えられている。
南の凹部。
この内側に穴門があったが、現在は校舎になっている。
ここから東には堀が設けられている。
南東の稜堡から穴門方向を見たところ。
南東の稜堡から通用門方向を見たところ。
東の凹部に設けられた通用門。
通用門から南側を見たところ。
北東の稜堡から通用門方向を見たところ。
北東の稜堡。
北東の稜堡から郭内を見たところ。
五稜郭の北方約300メートルに設けられた枡形。
訪城:平成18年7月29日・平成20年4月5日・令和6年1月14日
長野 信濃