米沢城
- 読み:よねざわじょう
- 別名:舞鶴城、松ヶ岬城
- 所在地:山形県米沢市(GoogleMapで位置を確認)
- 主要城主:長井氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏
- 文化財指定:-
- 続日本100名城(109番)
米沢城は、最上川と堀立川に挟まれた平地に築かれた平城で、暦仁元年(1238)に長井郷の地頭に封ぜられた大江時広が築城したと伝えられる。時広は赴任地の地名から長井氏を名乗り、以後150年近く長井氏の支配が続いた。室町時代初期には伊達宗遠が長井広房を追い、米沢は伊達氏の支配下に入った。天文17年(1548)には晴宗が桑折西山城から米沢城へ本拠を移し、永禄10年(1567)には息子の政宗がこの城で生まれている。天正17年(1589)に政宗は芦名氏を破って領地を会津へ広げたが、天正18年(1590)の小田原征伐への遅参による仕置を受けて翌天正19年(1591)に領地を没収され岩出山城へ移封となり、代わって会津に封ぜられた蒲生氏郷が米沢を支配した。文禄4年(1595)の氏郷の急死によって蒲生氏が没落すると、慶長3年(1598)に豊臣秀吉の命で蒲生氏は宇都宮へ転封となり、代わって上杉景勝が越後から会津に入部。米沢城には直江兼続が入った。米沢城は兼続の時代に改修を受け、現在の規模になっている。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍支持を表明した上杉氏は、領地を伊達・信夫・置賜の30万石に減らされ、以後、明治維新まで米沢城は上杉家の居城となった。寛文4年(1664)には、上杉綱勝が嗣子を定めないまま急死。綱憲を養子と迎えることを認められたものの領地は置賜15万石に減らされ、米沢藩の財政は逼迫することとなったが、明和4年(1767)に藩主となった治憲(鷹山)の藩政改革により、財政再建を果たしている。戊辰戦争では奥羽列列藩同盟に組し、明治新政府軍と戦い降伏。その後は新政府軍に加わり、庄内藩に兵を出している。戊辰戦争後は14万7000石に減封されたものの家名は存続し、明治4年(1871)の廃藩置県まで存続した。現在は松が岬公園になり、本丸に上杉神社、二の丸に松岬神社が鎮座している。
米沢城主要部縄張図(現地案内板より)。
本丸の周囲を水濠が囲み、その周囲を二の丸がぐるりと囲む。さらにその周囲を三の丸が囲む輪郭式の縄張りだった。
本丸の東側入口にあたる舞鶴橋。
奥に上杉神社の本殿が見える。
舞鶴橋から見た本丸の堀。
本丸奥御殿の跡に建つ上杉神社本殿。
上杉家の祖・謙信と、中興の祖・鷹山を祀っている。
米沢藩9代藩主上杉鷹山像。
逼迫した米沢藩の財政再建を果たした。
上杉家の祖・上杉謙信の像。
本丸の東側に立っている。
平成21年の大河ドラマ・天地人の放送を記念して立てられた上杉景勝と直江兼続の像。
二の丸から本丸北西端を見たところ。
土塁の上に三層の隅櫓が建っていた。
西参道。
一見門の跡が残っているように見えるが、往時は本丸西側に虎口はなかった。
北参道。
北参道から見た堀。
このあたりの幅が最も広く、30メートルほどある。
本丸北東端に立つ上杉曦山(13代藩主斉憲)の碑。
往時にはここに北西端と同じような三層の隅櫓が建っていた。
本丸南東端。
ここは周りよりも少し高くなっていて、上杉謙信の遺骸を祀る御堂の跡(写真左)と、招魂碑が立っている。
南参道の菱門橋。
本丸北西端に建つ春日神社。
元は越後の春日山城にあったが、上杉氏の米沢への移封にともなってここへ移された。
大正8年(1919)の米沢大火で上杉神社と共に焼失し、松岬神社に合祀されていたが、昭和56年(1981)に再建された。
二の丸東部の世子御殿跡に鎮座する松岬神社。
上杉景勝・直江兼継・竹俣当綱・莅戸善政・上杉治憲(鷹山)・鷹山の師、細井平洲の6人が祀られている。
二の丸南部に建つ上杉伯爵邸。
明治29年(1896)に上杉茂憲伯爵の本宅として建てられたが、米沢大火で焼失。現在の建物は大正11年(1922)に再建されたもの。
上杉伯爵邸の南と東を取り囲む堀。
訪城:平成20年9月11日、令和2年11月19日
山形 羽前