前橋城

  • 読み:まえばしじょう
  • 別名:厩橋城
  • 所在地:群馬県前橋市(GoogleMapで位置を確認)
  • 主要城主:長野氏、北条(きたじょう)氏、滝川氏、平井氏、酒井氏、松平氏(越前)
  • 文化財指定:前橋市指定史跡(昭和49年9月21日)

前橋城は、利根川東岸の平地に築かれた平城である。築城については諸説あるが、『前橋風土記』では延徳年間1489~92)に箕輪城の長野氏によって築かれたとされる。当時は前橋の旧名である厩橋の名をとって厩橋城と呼ばれていた。

永禄3年(1560)以降は、越後の上杉謙信の関東出陣の拠点となり、永禄6年(1563)には北条(きたじょう)高広を城代に置いた。謙信が死ぬと、城は武田勝頼の手に落ちるが、天正10年(1582)に武田氏が滅びると、関東管領として織田氏家臣の滝川一益が入城する。同年6月、本能寺の変で織田信長が死ぬと、滝川一益は前橋から撤退し、城は北条氏のものとなった。

天正18年(1590)、小田原征伐により北条氏が滅びると、徳川家康が関東に移封となり、家臣の平岩親吉が厩橋城に入った。関ヶ原の戦いの翌年の慶長6年(1601)には平岩親吉が甲府へ移り、代わって酒井重忠が厩橋に入った。重忠の時代に厩橋城は大改修が施され、三重三階の天守も築かれた。忠清から忠挙の時代に(17世紀中頃~18世紀初頭)は「厩橋」から「前橋」に改称されている。しかし、前橋城は常に利根川の浸食を受け続け、川普請に苦心している。寛延2年(1749)、酒井氏は姫路に移封となり。所領を入れ替える形で姫路から越前松平家が前橋に入った。

明和4年(1767)、利根川の浸食が進んだため、松平朝矩は前橋城を放棄。武蔵国川越城へ移り、前橋には川越藩の分領の陣屋が置かれた。前橋の領民からは前橋城の債権と藩主の帰還の請願・嘆願が何度か繰り返し出され、幕末の文久3年(1863)に前橋城の再建が開始。慶応3年(1867)に完成し、松平直克が入城した。

廃藩置県は前橋県の県庁が置かれた。第一次群馬県が成立すると、県庁は高崎城に置かれたが、明治5年(1872)に前橋に移された。熊谷県を経て成立した第二次群馬県でも県庁が置かれ、現在に至っている。現在は群馬県町のほか、群馬県警本部、前橋市役所などの公共施設が建ち並ぶほか、前橋公園が整備されている。

前橋城縄張図(現地案内板より)。
写真は幕末に再建された前橋城のもの。
半円型の馬出しが2箇所に設けられた。

本丸。
酒井氏の時代には三重三階の天守も建っていた。
現在は群馬県庁のほか、群馬県警察本部、群馬県議会が建つ。

群馬県警察本部を囲む形でわずかに残る本丸の土塁。

本丸の北に設けられた高浜門。
奥の建物は群馬県警察本部。

県庁32階展望ホールから東南側を見下ろしたところ。
前橋合同庁舎、前橋市役所のほか多くの建物が建ち並び、城の面影は見られない。

大手町2丁目の日本経済新聞前橋支局の裏手にある車橋門跡石垣。
区画整理により西側(左)の台石は8メートル東へ移設されている。
前橋城の数少ない石垣遺構。

訪城:平成19年5月30日・平成19年6月9日・平成30年3月18日

群馬 上野