高崎城

  • 読み:たかさきじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県高崎市(GoogleMapで位置を確認)
  • 主要城主:井伊氏、酒井氏、松平氏(戸田)、松平氏(藤井)、安藤氏、松平氏(大河内)
  • 文化財指定:群馬県指定重要文化財(乾櫓)(昭和49年9月6日)、高崎市指定史跡(三の丸土塁・堀)(昭和57年2月17日)

高崎城は、烏川に碓氷川が合流する地点の東岸の平地に築かれた平城で、和田氏の築いた和田城を前身とする。和田氏は関東管領山内上杉氏に仕え、上杉憲政が越後へ逃げ延びると、上杉家を相続し関東管領となった上杉謙信の配下となった。その後、和田氏は武田氏に内通し、最終的に北条氏に仕えるが、天正18年(1590)の小田原征伐で上杉景勝、前田利家らの攻撃を受け落城した。

その後、和田城は放置されていたが、慶長3年(1598)に徳川家康によって箕輪城に封じられていた井伊直政が、交通の要衝である和田の地に移り、和田城の廃墟の上に城を建設し、和田を高崎に改めた。新たに築かれた高崎城は、本丸を中心に二の丸と三の丸がその周りを囲む縄張りとなった。井伊氏は高崎城築城後3年で彦根へ転封。その後、諏訪頼長が城番を務め、酒井氏、戸田松平家、藤井松平家、安藤氏と藩主が目まぐるしく代わる。寛永8年(1632)、安藤重長のときには、3代将軍徳川家光の実弟・忠長が駿河から配流され、高崎城で蟄居、翌年自害している。享保2年(1717)からは、大河内松平家が高崎藩に入り、廃藩置県まで大河内松平家が高崎藩を治めた。

明治になると、群馬県庁が置かれたが、帝国陸軍歩兵第15連隊の施設として利用されることとなり、県庁は前橋城へ移された。現在は高崎市役所をはじめ公共施設が集まっている。

高崎城縄張図(現地案内板より)
本丸の周囲を二の丸、三の丸が取り囲む囲郭式の縄張りである。

高崎城址公園内に建つ乾櫓。
乾櫓は元々は本丸にあったが、明治維新後に払い下げられ、農家の納屋として使われていたものを昭和51年(1976)に現在地の模擬石垣の上に移築復元された。

乾櫓の隣に建つ東門。
明治維新後に払い下げられたが、昭和55年(1980)に現在地に移築復元されている。

三の丸を取り囲む堀と土塁。

高崎市総合保健センターの建設に伴い平成21年(2009)に行われた発掘作業で見つかった本丸艮櫓付近の堀。
幅24メートル、深さ8メートルほど。
中央に見える土留めは、明治になって堀を埋め戻した際に構築されたものと考えられている。

訪城:平成21年1月12日

群馬 上野