本佐倉城
- 読み:もとさくらじょう
- 別名:将門山城
- 所在地:千葉県印旛郡酒々井町、佐倉市(GoogleMapで位置を確認)
- 主要城主:千葉氏、土井氏
- 文化財指定:国指定史跡(平成10年9月11日)
- 続日本100名城(121番)
本佐倉城は、干拓される前の印旛沼南岸の将門山に築かれた平山城で、文明年間(1469~1486)に千葉氏を再興した千葉輔胤によって築かれたのが始まりとされる。往時の本佐倉城は三方を湿地帯に囲まれ、城域は内郭と広大な敷地の外郭に別れていた。千葉氏はその後9代に渡り本佐倉城を本拠とするが、その勢力は次第に衰えていき、北条氏が下総へ進出するとその配下に呑まれていった。天正18年(1590)の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、千葉氏は改易されて断絶。本佐倉城は、北条氏に代わって関東に入った徳川家康配下の内藤家長に接収される。その後慶長15年(1610)に小笠原吉次、土井利勝が本佐倉城に入り、佐倉藩の藩庁が置かれたが、元和元年(1615)に佐倉城への藩庁移転と一国一城令により本佐倉城は廃城となった。
現在は国の史跡に指定され、内郭は土塁、空堀が良好に残されている。
本佐倉城縄張図(現地案内板より)
内郭は東西に伸びた半島状の丘陵上に築かれ、往時は三方を湿地帯が取り囲んでいた。外郭は内郭の西端からつながり、谷を挟んで内郭の南側へ連なる広大なものとなっている。
本佐倉城内郭縄張図(現地展示物を加工)。
東山馬場(五郭)。
東山馬場から四郭の斜面を見たところ。
四郭虎口。
堀底道を登ったところに門が建っていた。
四郭。
二度の発掘により、門や柵の跡、倉跡(三郭)・城山(主郭)への通路の跡が見つかり、登城経路が明らかとなった。
本佐倉城は各郭に名前がつけられているが、ここはまだ名前がつけられていない。
城山(左・主郭)と奥ノ山(右・二郭)を分断する大堀切。
堀切内の坂道を登りきったところには木戸が設けられていた。
城山虎口。
左に折れながら登る形の虎口。
城山(主郭)。
主殿や会所の建物跡が発掘され、城主が客を迎えたり宴を開いたりした曲輪と考えられている。
城山を囲む土塁。
城山西端から大堀切越しに奥ノ山を見たところ。
両郭ともここで土塁が切れているため、ここに木橋が架けられていたと考えられている。
城山の南に設けられた曲輪。
根古谷方面へ続いている。
城山の西に設けられた奥ノ山(二郭)。
千葉氏の守護神の妙見菩薩を祀る宮があった場所で、儀式の場であったと考えられている。
奥ノ山から大堀切越しに城山を見たところ。
奥ノ山に建てられた妙見宮の跡。
奥ノ山の西に設けられた倉跡(三郭)。
発掘調査によって広範囲に渡って掘立柱建物の跡が確認されたほか、炭化した米が出土している。また調理具なども出土し、倉庫群だけでなく生活の場でもあったと考えられている。
四郭の北端に鎮座する諏訪神社。
東山馬場の北側に設けられた東山。
東山から北側を見たところ。
現在は水田が広がっているが、往時は湿地帯の向こうに印旛沼が広がっていた。
東山から東へ向かうと空堀につながっている。
東山の東に設けられた曲輪。
東山馬場側から見た東山虎口。
2つの門によって厳重に守られていた。
東山虎口を反対側から見たところ。
北側から見た東山。
東西に細長く伸びる東山は郭自体が巨大な土塁であり、南の城山(主郭)を守っていたと考えられている。
四郭の北に設けられた東光寺ビョウとよばれる曲輪(六郭)。
名前の由来や曲輪の性質については未確定。
東光寺ビョウ(奥)からセッテイ山方面への入口となる南奥虎口。
セッテイ山(右・七郭)と倉跡(左・三郭)を隔てる堀。
深さは10メートル、幅は広いところで9メートルある。
セッテイ山(七郭)。
接待曲輪あるいは人質曲輪と考えられている。
ほかの曲輪では見られない茶壺、碁石、火箸などが発掘されている。
本佐倉城内ではセッテイ付近にだけ群生している金明竹。
セッテイ山の北西に鎮座する麻賀多神社。
外郭の一部にあたる。
訪城:平成27年8月15日、令和6年12月31日
千葉 下総