小田原城

  • 読み:小田原城
  • 別名:小峯城、小早川城
  • 所在地:神奈川県小田原市(GoogleMapで位置を確認)
  • 主要城主:大森氏、北条氏、大久保氏、阿部氏、稲葉氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和13年8月8日)
  • 日本100名城(23番)

小田原城は、早川、酒匂川、相模湾に囲まれた八幡山とその周辺に築かれた平山城で、室町時代に大森氏が八幡山に居城を築いたのが始まりとされる。明応4年(1495)、伊豆の伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から小田原城を奪い、本拠とする。北条氏(2代目の氏綱の時代に北条を名乗る)によって城域は八幡山城の周辺へと拡張されていった。現在天守がある辺りが居館部で、八幡山は詰城とされた。3代目の氏政の時代には永禄4年(1561)に越後の上杉謙信、永禄12年(1569)に甲斐の武田晴信によって攻められるが、いずれも持ちこたえ撤退させている。城はその後も拡張を続け、天正18年(1590)には全長9kmにも及ぶ惣構の大城郭となっている。同年の豊臣秀吉の小田原征伐では、全国の大名によって包囲され籠城するが、加賀の前田利家らによって関東の支城が次々と落とされていき、7月5日に降伏。小田原城は豊臣方に明け渡された。戦を手動した4代目の氏政と氏照は切腹し、5代目の氏直は高野山へ送られた。なお氏直は天正19年(1591)には徳川家康の口利きもあって赦免され、河内と下野の計1万石の大名として復活したが、同年30歳で没した。下野の所領は従弟の氏盛が引き継ぎ、氏盛は実父氏規の所領で河内狭山と合わせて1万1000石の大名となっている。

北条氏が去ったあとの関東へは徳川家康が入封し、小田原には家康配下の大久保忠世が入部するが、慶長19年(1614)に2代目の大久保忠隣が改易。代わって阿部氏、稲葉氏が小田原へ入った。貞享3年(1686)に大久保忠朝が小田原へ返り咲き、以後明治まで大久保氏が小田原藩主を務めた。大久保忠世から稲葉氏の時代に八幡山から現在の位置に城の中心部が移され、総石垣造りの城が整備されている。天守は寛永16年(1703)の地震で焼失したが、宝永3年(1706)に再建された。一方、八幡山は放置され、八幡山古郭と呼ばれた。また、慶長19年には家康の手によって惣構が撤去されているが、完全には撤去しきれず北西部はそのまま残された。

明治になると天守をはじめほとんどの建物が取り壊されたが、昭和35年(1960)に天守、昭和46年(1971)に常盤木門、平成2年(1990)に銅門、平成21年(2009)に馬出門が復元されている。

小田原城主要部縄張図(現地案内板を加工)。
左上が北。
現在見られる小田原城主要部の遺構は大久保氏時代以降のものであり、北条氏の時代には居館部があったとされる。

小田原城主要部模型(現地展示物を加工)。
奥が北。
天守背後の八幡山古郭には北条氏の時代の中心部があった。

小田原城惣構(八幡山古郭の案内板より)
全長9kmに及ぶ長大な惣構が設けられていた。

二の丸東堀。
堀の向こうが二の丸。
赤い橋は後世築かれたもの。

二の丸堀から見る馬出門(復元)。

馬出門。

馬出門から見る二の丸隅櫓。
昭和10年(1935)に復元されたが、予算の都合により規模が半分になっている。

馬出門内部。

馬出門内部から天守を遠望したところ。

馬屋曲輪。
奥に馬出門が見える。

馬屋曲輪を取り巻く土塁。

馬屋曲輪の二重櫓跡。

平面復元された馬屋跡。

切石敷井戸。

銅門(復元)。

銅門内部。

銅門を通ったところから見る二の丸。

二の丸隅櫓。

二の丸御殿跡。
藩主の居館と政庁の機能を持っていた。

本丸東堀。

二の丸と本丸をつなぐ常磐木橋。

常磐木橋から続く常盤木門。

常盤木門をくぐったところから見る本丸。
本丸には将軍専用の本丸御殿が築かれていた。

小田原城復興天守。

復興天守から相模湾を見たところ。
小田原征伐では、九鬼嘉隆、長宗我部元親をはじめとする大名たちの軍船が海に浮かんでいたという。

復興天守から八幡山古郭東曲輪を見たところ。

復興天守から石垣山城方面を見たところ。
小田原征伐では山の上に築かれた総石垣造りの城が遠くから見えたという。

南曲輪の堀。

南曲輪。

御茶壷曲輪。

本丸の南に設けられた小峯曲輪。
二宮尊徳を祀る報徳二宮神社が鎮座している。

小峯曲輪北堀。

本丸の北に設けられた御用米曲輪。
蔵や庭園の跡が発掘されている。

御用米曲輪の一角の瓦積塀に囲まれた区画。

瓦積塀を拡大したところ。

御用米曲輪北西土塁の断面表示。

二の丸の北に設けられた弁天曲輪。

三の丸幸田口門。

幸田口門から続く土塁。

三の丸土塁の石積。

大手門。
石垣の上に建つ鐘楼は元々浜手御門にあったものを大正年間に移築したもの。

箱根口門。
北条氏の時代はここが大手門だった。

八幡山古郭東曲輪から見る復興天守。

復興天守背後から見上げる八幡山古郭東曲輪。

小峯御鐘ノ台大堀切。
惣構以前に構築された三の丸外郭の遺構。

三の丸外郭新堀土塁。
一部は惣構と重なっている。

小田原駅東口から東へ100メートルほどのところにある北条氏政・氏照墓所。

氏政・氏照墓所。
右の大きな五輪塔が氏政夫人の墓、2つ並んだ五輪塔の右が氏政の墓、左が氏照の墓。
2つの五輪塔の前の生害石(平たい石)の上で氏政・氏照が自刃したと伝えられる。

訪城:平成24年6月16日、平成25年6月8日、令和6年8月2日、令和6年8月17日

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