干沢城

  • 読み:ひざわじょう
  • 別名:樋沢城、千沢城、安国寺城
  • 所在地:長野県茅野市(GoogleMapで位置を確認)
  • 主要城主:諏訪氏
  • 文化財指定:茅野市指定史跡(昭和63年7月29日)

干沢城は、宮川南西岸の守屋山北東面に築かれた山城で、その築城年代はよくわかっていないが、文明年間(1469~1486)にはすでに麓に城下に町が形成されていたといわれている。杖突峠方面の街道の入口を監視する役目を負うとともに神殿(諏訪大社上社前宮)の詰の城でもあった。主郭から四郭までが南北に連なる連郭式で、主郭の南には堀切を挟んで長林砦が設けられた。別名の千沢城は干沢城の誤字と思われる。

文明15年(1483)1月、大祝家当主継満が惣領職も独占しようと惣領家当主政満とその子・若宮丸らを神殿で開いた酒席で謀殺(文明の内訌)。継満は干沢城に立てこもるが、社家衆はこれを良しとせず干沢城を攻撃。継満は敗れ高遠へ逃げ延びた。翌年5月、継満は小笠原氏ら伊那の豪族の力を借りて諏訪に侵入。武居城に立てこもり干沢城と対峙するが、大祝の地位を奪還することはかなわずに終わっている。天文11年(1542)6月、甲斐の武田晴信(信玄)が諏訪へ侵攻を開始すると、それに呼応して高遠の高遠頼継が干沢城を占領。麓の安国寺周辺に火を放ったと伝えられている。その後まもなく干沢城は廃城になったものと考えられる。

干沢城縄張図(現地案内板より)。

諏訪大社上社前宮から見る干沢城。
鉄塔の建っている場所が二郭。

上社前宮側の登城口。

登っていくと現れる神武社。

北西面には腰曲輪がたくさん配置されている。

四郭

四郭下の石積の跡。

三郭。
奥の鉄塔の建っているところは二郭。

三郭の下の石積。

二郭(右)と三郭(左)の間の堀切。

二郭。
奥の高まりの上が主郭。

主郭。

主郭を取り巻く曲輪に置かれた戦闘石。
戦闘時に投げ落とすものと思われるが、なぜか城の中央部に置かれている。

主郭背後の堀切。
堀切の向こうには長林砦が設けられている。

主郭背後の堀切を降りたところに設けられた安国寺院墓所。
麓の安国寺の歴代住持の墓。

安国寺側からの登城口。

訪城:平成21年5月9日・平成28年4月5日

長野 信濃