鞆城
- 読み:ともじょう
- 別名:鞆要害
- 所在地:広島県福山市(GoogleMapで位置を確認)
- 主要城主:毛利氏、足利氏、福島氏
- 文化財指定:福山市指定史跡(昭和51年7月13日)
鞆城は、瀬戸内海の鞆の浦を臨む丘に築かれた平山城である。鞆には南北朝時代に港の東に大可島城が築かれていたが、市街部には城は築かれていなかった。建武3年(1336)には京へ登る途中の足利尊氏が光厳天皇の発した新田義貞追討の院宣をこの地で受けている。
天文22年(1553)頃に毛利氏の命を受けた渡辺氏によって鞆市街の丘に鞆城の前身となる鞆要害が築かれた。鞆要害は尼子氏への抑えとして築かれ、丘上部一帯がその城域であったと考えられている。天正4年(1576)には織田信長によって京都を追放された室町幕府15代将軍足利義昭が放浪の末に鞆に入り、毛利氏の庇護の下で亡命政権を樹立した(鞆幕府)。このことから幕末の歴史家頼山陽は「室町幕府は鞆で始まり鞆で終わった」と喩えている。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで毛利氏の所領が長門・周防の2か国に減らされると、空いた安芸・備後には福島正則が封じられ、鞆城の築城が始まった。丘陵部の本丸を二の丸と三の丸が囲み、その城域は鞆港や周囲の寺社に達するほど広大になり、一説には三層三階の天守も築かれたと伝えられる。築城は慶長14年(1609)まで続いたが、戦略上重要な鞆の浦に巨大な城が築かれていることが徳川家康の嫌疑にかかり、廃城となった。元和5年(1619)に正則が信濃国高井野へ移封となると、西国鎮護のため福山に配された水野勝成の所領となり、鞆城跡には鞆奉行所が置かれた。
現在は城域の大部分が住宅地となり、丘上に本丸の石垣がわずかに残るほかは遺構はほとんど見られない。
南東麓の有料駐車場付近から見た本丸。
現在本丸は鞆城山公園となり、鞆の浦歴史民俗資料館が建てられている。
本丸。
写真右に転がる石は本丸に使われていた石材。
本丸。
本丸の西側に残る石塁。
旧状を残すのはほぼここだけである。
鞆城山公園入口の石積には本丸の石材が使われているが、形状は往時とはまったく異なる。
本丸南東の石垣も同様に本丸の石材が使われているものの旧状とはまったく異なる。
本丸から見る鞆の浦。
写真左の小高い丘には鞆要害が築かれる以前の大可島城が築かれていた。
訪城:令和6年2月25日
広島 備後