富山城
- 読み:とやまじょう
- 別名:安住城、浮城
- 所在地:富山県富山市(GoogleMapで位置を確認)
- 主要城主:神保氏、佐々氏、前田氏
- 文化財指定:-
- 続日本100名城(134番)
富山城は神通川南岸の平地に築かれた平城で、天文12年(1543)ごろに越中守護代神保長職が安住郷に築いたのが始まりといわれている。永禄3年(1560)、椎名氏を支援する上杉謙信の攻撃によって神保長職は富山城に火をかけて撤退。永禄5年(1562)に神保氏は上杉氏に降伏し、富山城は上杉氏のものとなる。永禄12年(1569)には椎名氏と一向一揆の連合軍が上杉氏撤退後の富山城に入城している。天正6年(1578)、上杉謙信の急死を契機として神保長住が織田信長から与えられた兵を使い上杉氏に大勝し、神保氏が再び富山城に入城した。天正10年(1582)3月、神保長住は上杉方に富山城を急襲され幽閉、失脚し、代わって織田信長配下の佐々成政が富山城に入った。富山城に入った佐々成政は城の大改修を行う。同年6月、本能寺の変で織田信長が没すると、成政は羽柴秀吉と対立。天正13年(1585)8月、秀吉の軍勢の包囲され降伏。閏8月、秀吉は富山城にて上杉景勝との会談を計画したが上杉景勝により断られ、富山城を破却して撤退した。
その後しばらく富山城は放棄されていたが、慶長3年(1600)の関ヶ原の戦いの後に金沢城の前田利長が富山城を再建。大改修を行って隠居城としたが、慶長14年(1609)に全焼。利長は高岡城を築いて移り、富山城には城代が置かれた。寛永16年(1639)、前田利常は次男・利次に10万石を与えて富山藩を興させ、利次は富山城に入った。この頃の富山城は加賀藩の飛び地であったが、のちに領地を交換し、万治4年(1661)に幕府の許可を得て大改修を行う。以後、富山城は前田氏の居城として明治まで続き、明治4年(1871)、廃藩置県により廃城となった。
現在は本丸、西の丸が富山城址公園として整備され、模擬天守も建てられている。
富山城縄張図(現地案内板より)。
神通川の水を掘りに引き込み、浮城とも呼ばれていた。
昭和29年(1954)に鉄筋コンクリートで築かれた模擬天守。
富山城は文化財指定されていないが、模擬天守は富山市郷土博物館として国の登録有形文化財に指定されている。
本来ここには本丸の南の虎口である鉄御門が建っていた。
模擬天守前の土橋西側の堀。
写真奥の木が茂っているところは西の丸に当たる。
本丸鉄御門の虎口。
東出丸に隣接して建てられていた千歳御門。
明治時代に農家へ移築されていたが、平成19年(2007)に本丸東側に移築された。
本丸内に立つ富山藩2台藩主前田正甫の像。
藩政の確立に努め、越中売薬の基礎を作った。
訪城:平成21年7月25日
富山 越中