後閑城

  • 読み:ごかんじょう
  • 別名:−
  • 所在地:群馬県安中市(GoogleMapで位置を確認)
  • 主要城主:依田氏、新田氏
  • 文化財指定:安中市指定史跡(昭和44年6月30日)

後閑城は、後閑川と九十九川の合流点に突き出した南北に長い台地の先端に築かれた城で、嘉吉元年(1441)に信濃の依田忠政によって築かれたのが始まりと伝えられる。弘治2年(1556)ごろには、新田信純が城主を務めていた。永禄3年(1560)に越後の長尾景虎が関東へ出陣すると、近隣の豪族たちはこれに従ったが、新田氏と小幡氏は武田信玄に従った。永禄9年(1566)に箕輪城が信玄によって落とされると、永禄10年(1567)、新田信純改め真純は後閑城に入った。天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、新田真純の長男・信重は、厩橋城の北条高広(上杉謙信配下)に従い、小田原の北条氏に従った次男・重政と三男・信久は両後閑と呼ばれた。天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐では、両後閑は小田原城に籠もり、後閑城は松井田城の大道寺政繁の指揮下に入ったが、北条氏滅亡とともに後閑城も廃城となった。現在は後閑城址公園となり、曲輪、土塁、空堀が良好に残されている。

後閑城縄張図(現地案内板より)。
山上部の本丸の周囲を北郭、東郭、二の丸、南郭、西郭が取り囲む。

駐車場となっている西第三郭から見た後閑城。

西第二郭。
写真手前右が半円状の横矢になっている。

西第二郭から西第一郭と本丸を見たところ。

西第三郭から西第一郭に向かって伸びる堀切。
上のほうに西第一郭の虎口が見える。

西第一郭。

西第一郭と本丸の北に設けられた北第一堀切。
右の斜面の上が本丸。

北第一堀切と北郭の間に設けられた北第二堀切。
左の斜面の上が北郭。

北第一・第二堀切。
右から本丸、北第一堀切、北第二堀切、北郭と連なっている。

北第二堀切を下に向かってみたところ。
堀切の脇にいくつか曲輪が続いている。

北郭の北に設けられた北第三堀切。
右斜面の上が北郭。
北側は三重の堀切で厳重に守られている。

北郭。

北郭から北第二堀切、北第一堀切、本丸を見たところ。

本丸の西の虎口に設けられた模擬冠木門。

本丸南部。
本丸は南と北の二段構造になっている。

本丸南部を取り囲む石碑群は百庚申といい、後閑城家臣の末裔らによって庚申信仰の証として立てられたもの。

本丸北部。

本丸の東に設けられた東郭。

東郭(右)と二の丸(左)を隔てる大堀切。

二の丸の物見台に設けられた模擬櫓。

模擬櫓から見た二の丸。
東西に長い曲輪。

二の丸の東には堀切を隔ててもう一つの曲輪が設けられている。
丸い植木の列の手前に堀切が設けられている。

大堀切から東へと降りていく道。
道の脇に曲輪のようなものが見られる。

東郭の東に広がる東郭群。
いくつもの曲輪が山の下まで段々に連なっている。

本丸(左)と南郭(右)の間に設けられた堀切。

南郭。

訪城:平成21年11月8日

群馬 上野