勝山館
- 読み:かつやまだて
- 別名:和喜の館
- 所在地:北海道檜山郡上ノ国町(GoogleMapで位置を確認)
- 主要城主:蠣崎氏
- 文化財指定:国指定史跡(昭和52年4月12日)
- 続日本100名城(102番)
勝山館は、夷王山の東中腹の斜面に築かれた城館で、文明5年(1473)頃に蠣崎信広によって築かれたとされる。それまでの拠点であった花沢館から移転し、信広の長男の光広の代まで蠣崎氏の拠点となった。南側の尾根を堀切で断ち切り、広大な本曲輪と北曲輪が配置され、本郭と北曲輪の間には二重の空堀が設けられた。
永正11年(1514)、光広は松前の大館に拠点を移し、勝山館は「脇の館」転じて「和喜の館」と呼ばれた。勝山館には蠣崎氏の者が城代として置かれ、享禄2年(1529)と天文5年(1936)の二度にわたりセタナイ(瀬棚)アイヌの攻撃を受け、鎮圧している。慶長年間(1596~1615)に廃城には廃城となった。
勝山館跡ガイダンス施設に設けられた勝山館模型。
左側が北東。
曲輪の中央を通路が貫き、両側に建物が並んでいた。
館の西にそびえる夷王山。
館の南背後の夷王山墳墓群。
勝山館に暮らしていた人の墓と考えられ、600基以上の墳墓が発掘され、白い標柱が建てられている。
仏教様式の墓に混じってアイヌの墓も見つかっていることから、館内にはアイヌも暮らしていたと考えられている。
奥の建物は勝山館跡ガイダンス施設で、施設内には墳墓も再現されている。
館の南に設けられた搦手門。
門の外側には尾根を断ち切る堀切が設けられている。
搦手の外の斜面には墳墓やゴミ捨て場が設けられた。
搦手門から大手門方向を見たところ。
本曲輪の中央を通路が貫いている。
本曲輪南端の搦手門脇には館神八幡宮が鎮座していた。
文明5年(1473)の創建であることからこの頃に勝山館が築かれたと考えられている。
現在は麓の国道228号沿いに遷されている。
中央の通路の両側に並んでいた建物の跡が平面復元されている。
大手門から30メートルほどのところに設けられた櫓門の跡。
中央の通路は両側には排水溝が設けられていた。
平面復元された城代の住居跡。
櫓門の大手門側に通路に面して建っていた。
平面復元された客殿の跡。
館内で最大の建物で、館主が使っていたと考えられている。
大手門から搦手門方向を見たところ。
大手門と北曲輪の間に設けられた二重空堀。
北曲輪の北の虎口。
訪城:令和6年6月30日
北海道 渡島