長野原城

  • 読み:ながのはらじょう
  • 別名:箱岩城
  • 所在地:群馬県吾妻郡長野原町(GoogleMapで位置を確認)
  • 主要城主:斉藤氏、常田氏、羽尾氏、湯本氏
  • 文化財指定:長野原町指定文化財(平成2年3月27日)

長野原城は、吾妻川と白砂川の合流点に向かって突き出した山の尾根上に築かれた山城で、その築城年代はわかっていない。武田晴信(信玄)が上州への進攻を開始すると、武田の上州攻略先鋒方真田幸綱(幸隆)は永禄5年(1562)に斉藤氏のものであった長野原城を落とした。長野原城には幸綱の弟・常田隆永が入り、岩櫃城の斉藤憲広(上杉氏配下)とにらみ合った。永禄6年(1563)、斉藤憲広は農繁期のため郷士が地方に戻り手薄となった長野原城の攻略に動きだす。常田隆永は自ら須川(現・白砂川)西岸の諏訪神社の辺りまで出て斉藤方を迎撃するが討死し、長野原城は斉藤方の手に渡った(このとき討死したのは常田隆永の息子の俊綱で、隆永は元亀3年(1572)の上杉方との戦いで戦死したとも伝えられている)。斉藤氏が奪い返した長野原城には、羽尾幸全、海野幸光が入ったが、間もなく真田氏に奪い返され、草津の領主であった湯本幸政が城主となった。天正10年(1582)以降はどのような変遷をたどったのかはわからず、廃城の時期も不明となっている。

長野原城概要図(地理院地図より)。
東西700メートルほどの尾根上に築かれている。

大手門に建つ瑠璃光薬師堂。

大手道は九十九折になっている。

九十九折の大手道をしばらく登ると、箱岩出丸が見えてくる。
王城火山群の噴出物の一部が地上に露出して固まったもので、ほぼ垂直な箱型の岩場が出城的な曲輪として利用された。
長野原城の別名・箱岩城は、この箱岩出丸から名づけられている。

箱岩出丸に建つ伴僧坊大権現。
浜松奥山の伴僧坊大権現を分霊したもので、現在の建物は昭和28年(1953)に立て直されたもの。

尾根に設けられた秋葉社跡の出丸。

出丸から西へ50~60メートルほど離れた尾根上に設けられた本丸。

本丸の西にこのような竪堀が設けられている。

尾根の東側に位置する物見台。

物見台のさらに東の尾根上に位置する天狗岩。

訪城:平成20年6月8日

群馬 上野