岩櫃城
- 読み:いわびつじょう
- 別名:-
- 所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町(GoogleMapで位置を確認)
- 主要城主:吾妻氏、斎藤氏、真田氏
- 文化財指定:国指定史跡(令和元年10月16日)
- 続日本100名城(117番)
岩櫃城は、吾妻川北岸にそびえる岩櫃山の中腹に築かれた山城で、鎌倉時代初期に吾妻太郎助亮が築城したと伝えられているが、定かではない。南北朝時代に齋藤氏によって築城され、戦国時代にはその居城となり、白井城の支城の役目を負った。永禄3年(1560)に武田氏の西上州攻略の任を負った真田幸綱(幸隆)が攻略したとされているが、近年の研究では真田氏が攻略した斎藤氏の本拠は岩下城であり、岩櫃城はその支城であったと考えられている。永禄6年(1563)に幸綱が岩櫃に入ると、岩櫃城は沼田方面攻略の拠点となった。沼田城を攻略して以降は、沼田・上田の中継点としての役目を負った。天正10年(1582)、武田氏が織田・徳川連合軍に攻められ、真田昌幸が武田勝頼に岩櫃城での建て直しを勧めた際には、郷原支城西方にその居館を用意したが、勝頼は天目山で自刃したため、勝頼を岩櫃城に迎えることはかなわずに終わった。武田氏滅亡後、独立した真田氏は沼田城を巡って北条氏と争い、豊臣秀吉の仲介で沼田城は北条氏のものとなるが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡すると沼田城は再び真田氏のものとなり、岩櫃城はその支城として出浦氏が城代に置かれた。慶長19年(1614)、大坂の陣に際し、沼田城の真田信之によって廃城となった。以後は原町に陣屋が築かれ、吾妻における真田氏の拠点はそちらへ移された。本丸・二の丸を中心とする要害地区のほか、城下の平沢集落にも堀や土塁が築かれた。さらに北東の観音山には柳沢支城、南西には郷原支城が設けられた。
要害地区
岩櫃城要害地区縄張図(現地案内板より)。上が北。
本丸・二の丸を中心に竪堀が縦横無尽に張り巡らされている。
城の口。
要害地区の大手口で、この通路は竪堀でもある。
城の口の右手に広がる平沢集落。
集落の中にも竪堀が張り巡らされている。
城の口の背後に設けられた天狗の丸。
真田忍者の活動拠点であったといわれている。
天狗の丸に鎮座する岩櫃神社。
二の丸から中城の北を通って下りてくる竪堀。
二の丸の東に位置する中城。
三の丸とも呼べる場所。
中城の南を通って二の丸へ至る竪堀。
本丸(左)と二の丸(右)の間の空堀。
二の丸。
本丸や中城と比べさほど広くない。
本丸(右)と二の丸(左)の間の空堀。
本丸。
本丸に建つ岩櫃城本丸跡の標柱。
この場所は周囲より高く居館があったとされている。
本丸の南斜面の下部には石積が残っている。
本丸北枡形虎口。
本丸の北に設けられた水の手。
このあたりで水を確保していたと考えられている。
水の手から城の口へ至る通路に向かって二の丸から下りてくる竪堀。
中城の南に設けられた殿邸。
海野氏の居館跡とされる。
岩櫃城の城代を務めた出浦昌相の居館があったとされる出浦渕。
出浦渕に残る石積の跡。
橋台遺構。
柳沢支城
柳沢支城の登城口。
大きな岩がゴロゴロしている。
城口から少し登ったところにある金堀穴。
柳沢支城のある観音山には奇岩も多くあり、写真のものは「象ヶ鼻」と呼ばれている。
鎖が設けられるほどの急坂。
山頂の少し下にある見晴台から見た要害地区。
観音山山頂。
ここに狼煙台が置かれ、要害地区への連絡を取っていたものと思われる。
山頂の曲輪の西側には、一段低くなった削平地が設けられている。
そのさらに西には大規模な堀切が設けられている。
訪城:平成18年3月18日、平成20年12月23日、平成25年5月18日、令和6年11月24日
群馬 上野