沼田城
- 読み:ぬまたじょう
- 別名:蔵内城
- 所在地:群馬県沼田市(GoogleMapで位置を確認)
- 主要城主:沼田氏、北条氏、真田氏、本多氏、黒田氏、土岐氏
- 文化財指定:群馬県指定史跡(昭和51年3月30日)
- 続日本100名城(116番)
沼田城は、利根川東岸の河岸段丘上に築かれた崖端城で、幕岩城にいた沼田顕泰が新たな本拠として享禄2年(1529年に)築いたのが始まりとされている。
天文21年(1552)に北条氏が関東管領上杉憲政を追い、上州に背力を伸ばすと、顕泰はその配下となるが、越後の上杉謙信が関東へ攻め込むと顕泰は謙信に降伏し、その配下となる。しかし、永禄12年(1569)、家督をめぐって沼田氏に内乱が起き、顕泰は沼田を脱出。会津の芦名氏を頼って落ち延び、沼田氏は衰退。沼田城には上杉氏の城代が入るようになった。
天正6年(1578)に謙信が死亡すると、上杉家では後継者の座をめぐって内乱(御館の乱)がおき、その隙を突いて北条氏が沼田城を奪い取る。一方、西からは武田勝頼の命を受けた真田昌幸が沼田城攻略に乗り出し、天正8年(1580)にこれを奪取。その後、北条氏と真田氏の間で沼田の争奪戦が繰り広げられた。天正17年(1589)、豊臣秀吉が仲裁に入り、沼田城は北条氏のもの、名胡桃城は真田氏のものと取り決めるが、沼田城代猪俣邦憲は名胡桃城を急襲してこれを奪取。これは秀吉の発した惣無事令に反する行為であり、翌天正18年(1590)、秀吉は小田原城を包囲し、北条氏を滅ぼした。
その後、沼田城は昌幸の嫡男信幸(信之)に与えられ、関ヶ原の戦いでは信幸は徳川側につき、戦後はその領地を安堵された。元和8年(1622)に真田氏は上田から松代へ移封となり、沼田は松代藩の飛び地となった。明暦4年(1658)、信之の孫の信利の下で沼田藩が成立するが、寛文2年(1662)の検地で所領3万石を14万4千石と幕府に過大申告して領民を重税に苦しめることとなった(松代10万石への対抗意識の表れといわれている)。延宝8年(1680)、沼田藩は両国橋架け替えの用材調達を請け負うが、重税に苦しめられた領民のサボタージュに遭い、納期に間に合わなかった責任を問われ改易となり、以降しばらくの間、利根沼田・吾妻は天領となった。真田氏の時代には北関東で最大となる五層の天守も築かれたが、信利改易により沼田城は破却されている。
元禄16年(1703)、下総国舟戸藩から本多正長が入り、沼田藩が再び興る。享保15年(1730)に本多氏は駿河国田中藩へ転封。代わって常陸国下館藩から黒田氏が入部する。黒田氏は寛保2年(1742)に上総国久留里藩へ転封となり、代わって老中であった土岐頼稔が駿河国田中藩から入部し、以降明治4年(1871)の廃藩置県まで土岐氏が沼田藩を治めた。現在は、沼田公園となっている。
沼田城絵図(現地案内板より)
この図は右が北になっている。
河岸段丘によってできた崖の上に築かれた城であることがわかる。
本丸南東には天守が描かれている。
沼田公園駐車場の入口に残る三の丸土塁。
三の丸土塁の下には、堀の名残がある。
沼田公園入口から見た本丸の様子。
写真右方向に、真田信之が慶長年間(1596年~1614)に建てた五重の天守があった。
天守跡。
高さ8間(14.4メートル)の石垣の上に、五重の天守が建っていました。
本丸に建つ鐘楼(復元)。
現在の沼田城の象徴といえる鐘楼だが、かつて大手の外側にあったものをこの場所に復元したものである。
本丸に建つ真田信之と小松姫の夫婦の像
本丸北西の西櫓跡。
沼田城は真田氏改易後に一度破却され、本多氏以降は陣屋程度のものが築かれただけであるが、このように真田時代の以降がわずかに残っている部分もある。
西櫓跡の石垣。
現在の高さは2メートルほどだが、往時はもっと高かったといわれている。
本丸の北側に設けられた捨曲輪。
捨曲輪内にある平八郎石。
真田昌幸が沼田城を奪取した際、沼田平八郎義景の首実検をした石といわれている。
捨曲輪から見た月夜野方面。
本丸の東にわずかに残る堀の跡。
奥の石垣は往時のものである。
本丸御門跡。
右奥の電柱の向こうに堀の跡が見える。
二の丸。
現在は野球場になっている。
訪城:平成20年9月27日・平成20年10月31日・平成30年8月18日
群馬 上野